2017年9月11日月曜日

「会長先生はお父様のような存在」

 創価学会内部に池田本仏論が定着する上で、『人間革命』が大きな役割を果たしたこと
をこれまでに述べたが、今回は創価学会員が池田本仏論を盲信していたことを示す資料を
紹介する。

 前回に述べたように、昭和40年代に『人間革命』を通して「師への帰命論」なる考え方
が、創価学会内部で広められた。

 「師への帰命論」とは、「〝師〟つまり初代から三代までの創価学会会長は、御本仏と
同等の存在として帰命すべき対象である」という思想である。

 そして、この思想が広まった時点での会長は、第三代の池田大作であった。会長本仏論
が池田本仏論の母体だったのである。

 内藤国夫著『公明党の素顔』(昭和44年〔1969年〕刊行)に、昭和40年代の学会内の雰
囲気がうかがえる一節があるので引用する。


>  公明党の控室でわれわれはよくお菓子をごちそうになる。「これは会長先生がわざ
> わざ買って、いま届けてくださったものです。食べませんか」といってセンベイやま
> んじゅうなどを差し出される。彼らはこれをほんとうにありがたそうに、そしておい
> しそうに頬張る。いい年をした男たちがニコニコとセンベイやまんじゅうを食べ、食
> べ終わるといっせいに「ああおいしかった」「もう一ついただいてもいいですか」な
> どと声をあげる。
> (中略)そして池田会長賛辞が競争するようにして続く。
> 「会長先生はわれわれのお父さんのような方です」「会長のご指示に従っていれば絶
> 対にまちがいはない。先生のご判断はいつも的確です。あとになってみると、いつも、
> なるほどなと感心してしまうのです」
>  ちなみに、池田会長は現在、ようやく四十一歳、賛美し続ける議員のほうがおおむ
> ね年長者だ。時には会長の父親のような年齢の議員から「会長先生はお父様のような
> 存在」ということばを聞くこともある。
>  これだけ無条件に一人の人間を尊敬し、あがめたてることのできる人たちは幸福で
> ある。うらやましいとも思う。そしてこれが宗教の場に限られているなら、われわれ
> ヨソモノが何も外から文句をいったり、注文をつけることことはない。しかし、そう
> いうオールマイティな一人の人間に率いられた人々が政治の場に登場し、ある程度の
> 力を持ち、われわれの生活を左右するようにさえなった以上は、われわれ部外者とし
> てもいろいろ注文をつけたくなる。疑問もぶつけたくなる。

 ※ 引用中の「公明党の控室」とは、都議会公明党の控室のことである。内藤氏は当時、
  毎日新聞の記者として、東京都政の取材を担当していた。


 民意の信任を得て議席を得たはずの人達が、選挙の洗礼を受けておらず、有権者のうち
の一人に過ぎない池田大作を無条件に崇め奉り、判断を委ねている異様さを、内藤氏は指
摘している。そして、この異様さは現在の公明党・創価学会にも引き継がれている。

 それはさておき――創価学会が政治権力に介入しているという問題は、詳細に論ずべき
重要なことだが、今回の主題ではないのでこの件については別の機会に譲りたい――引用
中にある「会長先生はお父様のような存在」という表現にどのような含意があるかを、考
えたい。

 この点について、著者である内藤氏は特に論考を加えていないが、前回までに論じたよ
うに、「本仏」とは「主・師・親」の三徳を備えている存在である。
 つまり「会長先生はお父様のような存在」という表現には、以下の意味がある。

 「会長」である。 → 〝主〟である。
 「先生」である。 → 〝師〟である。
 「お父様」である。 → 〝親〟である。

 公明党の議員、特に国会議員や都議会議員は、ほぼすべて熱心な創価学会員である。
 当然のことながら、教義にも精通しており、主・師・親の三徳を具備していることが、
「本仏」の特性であることは承知している。

 上記引用中に「池田会長は御本仏」という表現はないが、それと同じ意味のことを、当
時の公明党議員たちは、口を揃えて述べていたのである。
 「池田本仏論」は、昭和40年代前半には学会内部に定着していたのだ。

 実は、上述の公明党議員の言動を彷彿とさせる記述が『人間革命』にもある。
 昭和23年(1948年)元旦、学会本部に集まった学会員たちが、戸田城聖を囲んで乾杯す
る場面の一部を以下に引用する。


>  一同は乾杯した。そして、なんとうまい酒だろうと思った。カストリ焼酎より、う
> まいというのではない。彼らはこの時、戸田の愛情を飲む思いがしたのである。彼ら
> にとって、戸田はつねに師であったが、ひとたび彼に会うと、いつか彼らは子となり、
> 戸田は父となった。そしてこの間柄は、年齢にはなんの関係もなかったのである。
 (『人間革命』第三巻より引用)


 この記述も、「本仏」が「主・師・親」の三徳を備えていることを踏まえてのものでる。
 『人間革命』第三巻は、昭和42年(1967年)3月に刊行されたが、上記引用部分が聖教
新聞に掲載されたのは、その前年の昭和41年(1966年)だったと思われる。

 また、内藤国夫氏が毎日新聞記者として、東京都政を担当していたのは昭和39年~43年
(1964年~1968年)だったとのことなので、『公明党の素顔』にある「会長先生はお父様
のような存在」という都議会公明党議員の異様な言動は、『人間革命』の記述を範とした
ものだったのだろう。

 池田大作は表向きは「私などを絶対視してはならない」など述べて、創価学会には会長
への個人崇拝など存在していないかのように世間体を取り繕っていたが、その実、『人間
革命』を通じて、創価学会内部に会長本仏論=池田本仏論を定着させるように仕組んでき
たのは、池田本人だったことに疑う余地はない。

 そして、その池田を生き仏のように敬う創価学会・公明党が、政治に小さからぬ影響力
を持つ以上、池田の人となりに世間の関心が集まったのは当然であろう。

 池田大作は、平成22年(2010年)に病に伏したために、社会からも学会からもフェード
アウトしつつある。

 しかし、創価学会が池田を「永遠の師匠」と規定している以上、学会員たちは池田の生
死にかかわらず、今後ともその言動や思想を規範とし続けるものと考えられる。

 創価学会と直接かかわりを持たない人であっても、政治や権力を介してその影響を受け
ることになる以上、池田大作がどのような人物であったかを知ることには意義がある。

 そこで当ブログでは、今後、池田大作について、より詳しく論じていく予定である。



お詫び

 前回の更新から、1ヵ月以上たってしまいました。申し訳ありません。
 実は、当面のところ忙しく、頻繁な更新は難しい状況です。
 ですが、ブログを止めるつもりはないので、不定期ではありますが、更新を続けるつも
りです。
 今後とも、よろしくお願いします。

2017年7月19日水曜日

池田本仏論について②

2 会長本仏論

 前回も一部引用したが、池田大作は昭和55年(1980年)4月2日付で『聖教新聞』に「恩
師の二十三回忌に思う」と題した文章を掲載し、池田本仏論を公式に否定した。


>  なおここで、いわゆる、“会長本仏論”について、重ねて申し上げておきたい。
 (中略)
>  創価学会の代々の会長ならびに幹部は、その意味からも、いわゆる仏法実践展開の
> 指導者であるとともに、文化、平和、社会へ仏法を展開しゆく指導者であるといえる
> のであります。
>  いうまでもありませんが、指導者と仏とは別であり、そこには、いささかたりとも
> 混同があってはなりません。
 (中略)
>  したがって、代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第3
> 代会長の任に就きましたが私などを絶対視してはならないし、かりそめにも、主師親
> の三徳とか、本門弘通の大導師といった表現を用いることは誤りであり、絶対にあっ
> てはならないことです。


 上記引用で池田大作は「創価学会の会長とは仏法実践の指導者」と述べ、「指導者と仏
とは別」なのだから「主師親の三徳といった表現を用いることは誤りであり、絶対にあっ
てはならない」と言っている。

 しかし、その「絶対にあってはならない」ことを、池田大作は他ならぬ『聖教新聞』紙
上に連載された『人間革命』でやってきたのである。

 『人間革命』第三巻に、池田大作が戸田城聖の経営する日本正学館に採用される場面が
描かれている。そこに以下の記述がある。


>  この若い革命家の「妙法への帰命」という理念は、具体的な実践でいうならば、稀
> 有の師への帰命、すなわち「戸田城聖への帰命」でなければならぬことを、彼は知っ
> たのである。

 ※ 文中の「この若い革命家」とは、池田大作(作中では「山本伸一」)のことである。


 引用中に「帰命」という言葉があるが、いかなる含意があるのだろうか。日蓮遺文中に
この語について解説した一節がある。


>  一切のかみ仏をうやまいたてまつる始めの句には、南無と申す文字ををき候なり。
> 南無と申すはいかなる事ぞと申すに、南無と申すは天竺のことばにて候。漢土・日本
> には帰命と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。
 (『白米一俵御書』(真蹟 富士大石寺所蔵)より引用)


 日蓮は「帰命」とは「我が命を仏に奉る」ことだと述べている。
 『人間革命』にある「師への帰命」という記述は、戸田城聖という「稀有の師」は、仏
と変わらない存在だと述べているに等しい。

 この『人間革命』の記述に基づき、創価学会内では「師への帰命」ということが、盛ん
にいわれるようになった。そして、その時点での「師」とは、池田大作のことである。

 また『人間革命』第五巻には、創価学会の初代会長・牧口常三郎の八回忌法要での戸田
城聖の言葉として、以下の記述がなされている。


>  縁の不思議について、お話しいたしますれば、私が北海道より苦学に東京へ出よう
> と決心しましたのは、十八、九歳の時でした。当時、下宿料は十八円で、郵便局づと
> めではどうにもならず、教員になろうと思い、紹介状をもらって先生にお目にかかり
> ました。先生は校長で私はそこの代用教員として非常に迷惑をおかけしながらも、先
> 生にかわいがっていただきました。……その時、先生は四十九、私は二十で、親であ
> り、師であり、主人と思ってまいり、牢にはいる時に、顔を見合わせて別れたきりで
> あります。


 戸田は、牧口会長のことを「親であり、師であり、主人」と述べているが、前回述べた
ように、主・師・親の三徳を備えていることが、本仏の特性である。上記引用は〝牧口会
長は本仏である〟と言っているとしか、解釈のしようがない。
 
 池田大作は、「私を仏として崇拝せよ」と公式の場で言ったことはない。だが、学会内
部で聖典同様の存在として重視されている『人間革命』を通じて〝創価学会の会長は御本
仏である〟という思想を広め、定着させたのだ。

 『人間革命』が執筆された時点での、創価学会の会長は池田大作である。つまり〝池田
会長を本仏として崇拝すべきである〟としか解釈のしようがない思想で、学会員たちを洗
脳したのである。

 その後、池田は日蓮正宗との抗争で一敗地に塗れ、名誉会長に退いた形になったが、池
田を退任させた大石寺法主・細井日達氏が死去すると再び実権を掌握し、後任の第四代以
降の会長たちが神格化されることはなかった。

 現在の創価学会会則でも「三代の会長は永遠の師匠」と謳われており、「池田先生は末
法の御本仏」と信じる学会員は多い。

 もし仮に、池田が生き仏のように敬われるにふさわしい高徳の宗教家であったならば、
創価学会がカルト呼ばわりされることもなかったであろうが、実際の池田は、その性的関
係の放埓さ、金に関しての意地汚さから明白なように、醜悪な俗物に過ぎない。

 池田大作の如き邪悪な俗物への個人崇拝を信仰の核とする創価学会が、反社会的カルト
となったことは、理の当然というべきであろう。

 創価学会の悪影響から社会を守るためには、池田大作の虚像を暴き、彼のような俗悪な
人物を崇め奉ることは、滑稽千万な愚行に過ぎないことを広く世間に知らしめていくこと
が、引き続き必要である。

 それは、洗脳され搾取されている学会員たちの覚醒を促し、彼らを救うことにもつなが
るのではないだろうか。

2017年7月16日日曜日

池田本仏論について①

 創価学会の公式の教義は「日蓮本仏論」であるが、非公式には、〝池田大作こそが現代
の本仏である〟という「池田本仏論」なる教義が存在するといわれる。

 一方で、創価学会は公的には、そのような教義などないとも主張してきた。池田大作自
身、「代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第3代会長の任に
就きましたが私などを絶対視してはならない」(『聖教新聞』昭和55年〔1980〕4月2日付)
と述べている。

 しかし、公的な建て前と本音を使い分けるのは、池田大作が得意とするところである。
 創価学会では、『聖教新聞』などの外部の眼にも触れるメディアで述べられた〝建て前〟
とは異なる〝本音〟が、上意下達の口コミで伝えられることが多い。

 元副会長の福島源次郎氏は、学会内部での口コミでの情報伝達の徹底ぶりを「世界最強」
と評している(『蘇生への選択』による)。

 池田大作は、公的な形で「私を仏として崇拝しろ」と述べた訳ではない。だが、そうと
しか解釈のしようがない表現を、創価学会内部に広めることで、池田への個人崇拝を学会
内部に定着させたのである。その実態を述べた文章を、以下に引用する。


>  また(池田大作が)「私の振る舞いが経である」とか、「私は福運の当体(そのま
> まの体)である」とか、「私と感応妙があるかどうかで信心は決まる」とか、「私が
> 行ってあげなければ福運がつかない」とかおっしゃいますので、一方でどんなに「私
> は凡夫」と建て前をいわれても、だれもが、いや「先生は仏様」と思ってしまうのも
> ムリからぬことでしょう。
>  私もかつて〝師弟感応の教学〟と叫んだ人間です。しかし、仏法上、感応妙という
> のは仏と衆生との関係をいうのです。ということは、先生を仏様として拝さなければ
> 〝師弟感応の教学〟というものは、成立いたしません。
 (原島嵩著『池田大作先生への手紙』より引用)


 このような形で「池田本仏論」が広められたのは、教祖への個人崇拝が知られると、世
間からの批判を招きかねないことや、かつての創価学会は、日蓮正宗参加の信徒団体であ
ったことから、宗門の教義である「日蓮本仏論」と矛盾する内容を、公式に主張すること
はできなかったこととの二つの理由が考えられる。

 この「池田本仏論」について、これからより詳しく論じるが、今回は「本仏」とは何か
について説明する。


1 そもそも「本仏」とは

 本仏とは、法華経に基づいた考え方である。法華経も他の経典と同じく、歴史上に実在
した釈尊が説いた教えを、弟子が書きとめたものという体裁をとっている。

 しかし、法華経の如来寿量品で釈尊は「人々は、釈迦牟尼仏は出家後に道場で修行して
悟りを得たと思っているが、実は私は成仏してから幾千億劫という歳月を経ている」と明
かす場面が描かれる。

 つまり法華経には、歴史上の釈尊と、その本体というべき永遠の命を持った仏とが登場
する。後者を「久遠実成の仏」と呼ぶ。

 法華経を根本経典とする天台宗や日蓮宗では、久遠実成の釈迦如来を本尊としているが、
「久遠実成の仏」という考え方は、他の宗派にも影響を与えている。例えば浄土真宗では、
阿弥陀如来を「久遠実成の仏」とする。

 法華経は、古来から前半を迹門、後半を本門に分けて解釈されてきた(この分け方は、
天台大師智顗によるものである)。

 如来寿量品は、本門に含まれている。そのため「久遠実成の仏」を「本門の仏」という
意味で「本仏」と呼び、歴史上の釈尊はその化身と考え「迹門の仏」という意味で「迹仏」
と呼ぶ。

 法華経で説かれる「久遠実成の仏」すなわち「本仏」は、真理そのものともいうべき存
在であり、あらゆる神仏の本体である究極の仏と考えられるようになった。
 また法華経の譬喩品では、釈尊は以下のように述べたとされている。


> 今此三界 (今、この三界は)
> 皆是我有 (皆、これ、わが有なり)
> 其中衆生 (その中の衆生は)
> 悉是吾子 (悉くこれ吾が子なり)


 仏弟子にとって、仏が「師」であることは言うまでもないが、法華経ではそれに加えて
現世は釈尊の所有するところ(所領)であるとされ、また衆生は釈尊の子とされている。

 久遠実成の釈尊は、現世に生きる衆生にとって「師」であるだけでなく、「主」であり、
「親」でもあることになる。

 この法華経の記述に基づき、主・師・親の三徳を兼ね備えていることが、本仏たる久遠
実成の釈迦如来の特性なのだと、日蓮は説いている。


>  故に法華経の第二に云はく「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是
> 吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す。復教詔す
> と雖も而も信受せず」等云云。此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり、師なり、
> 主なり。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とに
> はましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。
 (『南条兵衛七郎殿御書』(真蹟断片 若狭長源寺 外所蔵)より引用)


 以上をまとめると「本仏」とは、以下のような存在ということになる。

1.真理そのものというべき存在
2.あらゆる神仏の本体である根源の仏
3.主・師・親の三徳を備えている。

 この三点を踏まえて、次回は「池田本仏論」について検討を加えたい。



補足 「日蓮本仏論」について

 日蓮遺文には「教主釈尊」という言葉はしばしば登場するが、日蓮自身を「本仏」とし
て崇拝せよとは、どこにも書かれてない。

 『人間革命』第十二巻にも、戸田城聖の言葉として「御書のどこを拝しても、大聖人は、
私はすでに仏なのだから、みんなを救ってやろうなどとは、おっしゃっておりません」と
述べられている。

 日蓮正宗や創価学会は、〝文上では「教主釈尊」と書かれているが、文底においては日
蓮大聖人が御本仏〟などという、こじつけ解釈を日蓮遺文に加えているだけだ。

 しかも、その本仏化した日蓮の権威を借りて、大石寺法主や池田大作への個人崇拝を正
当化しているのである。

 「日蓮本仏論」は、日蓮の真意を捻じ曲げ「日蓮を悪しく敬う」邪義である。

2017年7月9日日曜日

創価学会は本当に「御書根本」か? ②

 「御書根本」を信仰の理念として掲げる創価学会だが、学会員の中には「御書」など読
まないし、それ以前の問題として、そもそも読む読解力があるかどうかも怪しい者も少な
くない。

 「御書」すなわち日蓮遺文は、当然のことながら古文であり、しかも仏教用語を多く含
むので、それを読んで理解できるためには、相応の学力が必要である。

 学会員たちの憧れの大学である、創価大学の主要学部の入試偏差値は40台。この事実が、
大半の学会員の学力がどの程度かを、雄弁に物語っている。御書など読めない者が、学会
員の大半を占めているのが実態なのだ。

 創価学会は、その創成期から「病気がなおる、金が儲かる」と、現世利益を掲げて信者
を集め、「護秘符」や「護符」などという怪しげなマジナイを売り物にしてきた。

 どう考えも、知的水準が高い人々に対して、訴求力があったとは思えない。創価学会は
最初から、頭脳明晰とは言い難い人々をたぶらかして信者としてきたのである。

 『人間革命』第五巻にも、御書を読めない者が多いことに対して、戸田城聖が警鐘を鳴
らしたとの記述がある。


>  彼の執筆になると思われる、当時の『聖教新聞』昭和二十六年九月一日号の「寸鉄」
> 欄には、さまざまな教学部員を諷刺して警告している。
>  「一、御書を読めない信者が多い。教学の衰えていることがわかる。広宣流布の騒
>  ぎどころじゃないぞ。気をつけろ。
>   二、御書を読める者もいる。そして大聖人の口真似だけしている。かかる者を桜
>  夢居士と名づけ奉る。
>   三、小説を読むひまがあっても、御書を読まん。こんなのは阿羅漢の弟で、陀羅
>  漢というんだ。
>   四、若い者で、御書を知ったかぶりしている者がいる。こんなのは釈迦の孫で悉
>  多羅振太子と名づけ奉る。
>   五、御書を読まないのを自慢の奥様がいる。こんなのは世迷夫人という。」
>  今日の創価学会教学の基本的姿勢は、この頃から確立されたといってよい。教学即
> 実践であり、実践が教学の正しさを実証してきたのである。

 ※ 文中の「彼」とは戸田城聖のことである。


 昭和26年(1951年)は、戸田が第二代会長に就任した年である。その時期から「教学の
衰え」を懸念しなければならなかったというのが、創価学会の偽らざる姿なのだ。

 『人間革命』は、教学力がない者、御書を読めない者が多いことを憂える文章を引用し
た直後に、「今日の創価学会教学の基本的姿勢は、この頃から確立されたといってよい」
とのたまっているが、いったい何がどう確立されたというのだろうか。

 バカな信者たちを、一部の幹部が利用し搾取する体制が確立されたというのなら、〝確
かにその通り〟と肯うこともできるのだが。

 創価学会は、御書や教学を重視するという建て前とは裏腹に、池田大作への盲信が信仰
の核となっている。元中堅幹部・古谷博氏の論文に、そのことを論じた一節があるので引
用する。


> 創価学会婦人部を特徴付ける十三ヶ条

> 一. 池田を絶対と信じている。
> 二. 自分の亭主より大事なのは池田と思っている。
> 三. 池田に身も心も捧げても悔いはない。
> 四. 池田と握手したら絶対に手は洗わない。
> 五. 相手が池田批判をすると心臓が高まり頭に血が昇ってしまう。
> 六. 池田を批判するマスコミや週刊誌記事は〝見ない。読まない。買わない。〟
> 七. 金太郎飴のような画一的な価値を好む。
> 八. 「師匠が地獄に行くならば自分も地獄に行く」
> 九. 御書や活字は苦手。深く思考することは好きではない。
> 十. 婦人部同士の競争心は異常に強い。
> 十一.広宣流布のためなら、家庭や子供たちの犠牲はやむを得ない。
> 十二.壮年部・青年部への監視は怠らない。(すぐ上に報告する)
> 十三.上から指令があったら、撲滅の題目は進んで実行する。
 (創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著『サヨナラ私の池田大作』所収
  「おわりに――最強の『婦人部』を検証する」より引用)


 創価学会の婦人部には専業主婦が多いため、F取りなどの学会活動の主要な担い手にな
っている。古谷氏は、学会婦人部の特徴として上記を挙げているが、婦人部以外の男性の
学会員にも当てはまる点が多いように見受けられる。

 私はこれまでに何回か、学会員から折伏を受けたことがある。いずれも男性の学会員だ
ったが、池田大作を絶対と信じ、池田を批判されると「聞き捨てならない!」と激昂し、
創価学会の画一的な価値観に安住する連中ばかりだった。

 それに、私を折伏しようとした学会員の中で、御書を読んでいた者は、たぶん一人しか
いなかったと思う。

 創価学会の根本は、御書――日蓮遺文――などではなく、池田大作への個人崇拝である。
池田が高潔な人格者ならば、創価学会もまともな組織になったかも知れないが、実際の池
田は、「広宣流布のため」といって貧しい学会員たちから集めた金で、自分専用の豪華施
設をつくって贅沢三昧の生活をし、美人の学会員に手をつけまくるロクでもない俗物であ
り、その上〝バレないようにやれば何をやっても構わない〟という反社会的思想を持った
邪悪な人物でもある。

 創価学会の実態は、日蓮の名を騙っているだけの〝池田教〟に過ぎない。
 創価学会員の中には、他人の迷惑をかえりみない強引な折伏を行う者が、今なお多い。
それだけならまだしも、折伏に応じない者に陰湿な嫌がらせを行う者までいる。

 現世利益一辺倒の信心も、社会に迷惑をかける強引な勧誘も、本来の仏教とは何の関係
もないものだ。創価学会は仏法を冒涜していると言わざるを得ない。

 学会員の中には、邪悪で反社会的なカルトそのものである〝池田教〟にマインドコント
ロールされ、常識的な判断力を持たない者が少なくない。

 まともな人生を送りたいならば、そういうどうしようもない連中とは、関わりをもたな
い方が賢明であろう。

2017年7月6日木曜日

創価学会は本当に「御書根本」か? ①

 創価学会では日蓮遺文のことを「御書」という。「御書」は学会員にとっては聖典であ
り、創価学会の会則でも以下のように規定されている。


 (教義)
 第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経
 を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各
 人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願
 とする。


 創価学会は、辞書のように分厚い『日蓮大聖人御書全集』を刊行しており、ほとんどの
学会員がそれを持っているはずだが、この御書を読んでいる者がどれほどいるか、怪しい
ものだと私は思う。

 というのも、『人間革命』の記述の中には、学会員が御書を読んでいないことを前提と
して書かれているのではないか、と思われる箇所があるからである。
 今回はその例を二つ挙げ、御書の記述に照らして検証してみたい。


>  真言宗は、平安朝の昔、伝教大師(最澄)と同時代の、空海によって、もたらされ
> た宗派である。
>  釈迦の爾前経である大日三部経を依経としたが、その教えの本質は、むしろ、イン
> ドのバラモン一派が重んじた、密儀の流れを汲むといわれる。
>  印――すなわち、手の指のさまざまな組み合わせ方や、真言陀羅尼という梵語の呪
> 文に、不可思議な力があるとする、神秘主義の思想であった。
 (中略)
>  優れた宗教が、社会の土壌にあれば、おのずと見事な、絢爛たる文化の花が咲くで
> あろう。また逆に、信仰が神秘的な、閉じた世界に押し込められてしまうと、人間精
> 神の自由な活動が抑えられ、民衆の生き生きとした鼓動も、社会の健全な発展も、い
> つしか止まってしまう――。
>  日蓮の「真言亡国」との呼号は、深い思索にもとづいていた。
 (『人間革命』第六巻より引用)


 この一節は、日蓮が立教開宗した際に、真言宗を批判した場面の説明として書かれたも
のであるが、あまりにも突っ込みどころが多すぎる。

 まず、初期の日蓮は、密教に対して批判的ではなかった。後に批判に転じてからも、法
華経を最も優れた経典だとする天台大師の教説「五時八教の教判」を擁護する立場から、
大日経や金剛頂経を重んじる密教を批判したのである。

 『人間革命』の記述は、史実に反しているのだ。日蓮の真言宗批判は、印や真言陀羅尼
を用いる神秘主義的な密儀に向けられたものではなく、空海が天台大師とは異なる独自の
教相判釈を提唱し、密教経典を法華経よりも優位に置いたことに向けられている。実際、
日蓮は、法華経も本来は密教経典であった、という見解を示している。


>  今汝等知るべし、大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く、已後ならば涅槃経
> 等の如し。又天竺の法華経には印・真言有れども、訳者之を略して羅什は妙法経と名
> づけ、印・真言を加へて善無畏は大日経と名づくるか。
 (『寺泊御書』(真蹟 中山法華経寺所蔵)より引用)


 また、創価学会が重んじる『御義口伝』には、次の記述がある。


>  御義口伝に云はく、陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり。其の故は、陀羅尼は諸仏の密
> 語なり。題目の五字は三世の諸仏の秘要の密語なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と
> 唱へ奉るは陀羅尼を弘通するなり。


 『御義口伝』は偽書の疑いが濃厚であるが、池田大作に『御義口伝講義』という著作が
あることからも明らかなように、創価学会では教義上重視されている(『御義口伝講義』
の本当の著者は、元教学部長の原島嵩氏である)。

 「南無妙法蓮華経」は陀羅尼だと『御義口伝』には書かれている訳だが、『人間革命』
は、その陀羅尼を「神秘主義」として批判しているのだ。支離滅裂である。

 以上で明らかなように、『人間革命』第六巻に記されている日蓮の「深い思索」とやら
は、「御書」とも、実際の日蓮の思想とも、無関係なでっち上げである。

 もう一つの例として、『人間革命』第九巻で詳述されている「小樽問答」における辻武
寿氏(『人間革命』では「関久男」)の発言を引用する。


> 「『開目抄』において『諸宗は本尊にまどえり』と、大聖人は喝破されております。
> 身延には定まった本尊がない。……日蓮大聖人の仰せられた本尊を拝んでいない。釈
> 迦を拝めとは誰が言ったか。……この本尊雑乱について、身延山はいかに大聖人にお
> 答えするつもりでしょうか。いかに創価学会に対して返答するつもりであろうか! 
> 明らかな返答を承りたい」


 『開目抄』には、確かに『諸宗は本尊にまどえり』との記述がある。しかし、この一節
を何度読んでも、〝法華経の如来寿量品に説かれる久遠実成の釈尊を本尊とすべきなのに、
諸宗は本尊に迷って他の仏を拝んでいる〟と、日蓮は主張しているとしか解釈のしようが
ない(参考までに、『開目抄』当該部分を補足で引用する)。

 つまり、辻氏は日蓮が〝釈迦を拝め〟と言っている一節を引いておいて、「釈迦を拝め
とは誰が言ったか」と居直っているのである。この部分を読んだ学会員は、何も思わなか
ったのだろうか。『開目抄』は三大部の一つであり、日蓮系宗教では創価学会を含めて、
どこでも重視されている遺文なのだが。

 『寺泊御書』や『開目抄』と照らし合わせて、『人間革命』を読めば、その記述は日蓮
の教えに基づいていないことが一目瞭然である。

 創価学会は日蓮の名を騙っているだけであり、彼らが自称する「御書根本」というのは、
大ウソと言わざるを得ない。

 『人間革命』の実際の著者である篠原善太郎氏は、おそらく日蓮正宗から受け継いだ創
価学会の教義が、日蓮遺文と矛盾することに気づいていたであろうが、ほとんどの学会員
は御書など読めないので、疑問視されることはないだろうとの考えから、上述のような欺
瞞に満ちた記述をしたのであろう。

 学会員が、御書の記述と創価学会の教義との矛盾に気づかないのは、「創価学会は絶対
に正しい」と信じ込まされ、疑問を持つことがないように、思考停止するようにマインド
コントロールされているからであろう。

 当ブログで示してきたように、『人間革命』や『日蓮大聖人御書全集』を、虚心坦懐に
読むだけでも、創価学会の矛盾に気づくきっかけになり得る。

 しかも現在はインターネットの普及により、情報を得ることは以前よりもたやすくなっ
た。創価学会ではネット禁止令があるそうだが、禁を侵して当ブログをご覧になっている
学会員もおられるかもしれない。

 そんな方には、創価学会で教えられていることと、あなたがインターネットで目にした
ことと、どちらが多くの真実を含んでいるかを、自分の頭で考えることをお願いしたい。

 そうした方が、カルトの教えを唯々諾々と信じるよりも、きっと、より実り多い人生に
つながるはずである。



補足1 「小樽問答」について

 「小樽問答」とは、昭和30年(1955年)3月11日、北海道小樽市で行われた、日蓮宗と
創価学会の公開法論である。

 創価学会は、この法論に勝ったと主張しているが、実際には学会員を大勢動員して、ヤ
ジで圧倒しただけのようである。

 しかしながら、日蓮宗の僧侶が言葉に詰まる場面もあったという。
 本文で示したように創価学会側を代表して、この法論に臨んだ当時の青年部長・辻武寿
氏の主張は、日蓮が明らかに〝釈迦を拝め〟と主張している遺文を引用した直後に「釈迦
を拝めとは誰が言ったか」と発言するなど、無茶苦茶なものであった。

 このような人物を相手に、論理的な討論など望むべくもなく、日蓮宗僧侶が言葉に窮し
たのも無理からぬことではなかったかと思う。キチガイには、言葉による説得は届かない
のだから仕方ない。

 私の個人的な経験からいっても、創価学会員は、折伏などの際に論理的に破綻した主張
をしてくることが多い。

 しかも、こちらが呆れているのを見て、何を勘違いしたものか、「どうだ、参ったか」
と言わんばかりに勝ち誇る者もいる。

 キチガイ信者と議論しても、こちらの理屈は通じないことが多いので、学会員とはまと
もな話し合いなど成り立たないものと考えて、最初から関わらない方が無難だと思う。


補足2 『開目抄』の「諸宗は本尊にまどえり」前後の引用

>  今、久遠実成あらわれぬれば、東方の薬師如来の日光・月光、西方阿弥陀如来の観
> 音・勢至、乃至十方世界の諸仏の御弟子、大日・金剛頂等の両部、大日如来の御弟子
> の諸大菩薩、猶、教主釈尊の御弟子なり。諸仏、釈迦如来の分身たる上は、諸仏の所
> 化申すにをよばず。何に況んや、此の土の劫初よりこのかたの日月・衆星等、教主釈
> 尊の御弟子にあらずや。
>  而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。倶舎・成実・律宗は三十四心断結成
> 道の釈尊を本尊とせり。天尊の太子、迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし。華
> 厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににた
> る仏を本尊とす。天王の太子、我が父は侍とをもうがごとし。華厳宗・真言宗は釈尊
> を下して盧舎那・大日等を本尊と定む。天子たる父を下して種姓もなき者の法王のご
> とくなるにつけり。浄土宗は、釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもって、教主を
> すてたり。禅宗は、下賎の者一分の徳あって父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下
> す。此皆、本尊に迷へり。例せば、三皇已前に父をしらず、人皆禽獣に同ぜしがごと
> し。寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり。故に妙楽云はく「一代
> 教の中未だ曾て父母の寿の遠きことを顕はさず。若し父の寿の遠きことを知らざれば、
> 復父統の邦に迷ふ。徒に才能と謂ふも全く人の子に非ず」等云云。妙楽大師は唐の末、
> 天宝年中の者なり。三論・華厳・法相・真言等の諸宗、並びに依経を深くみ、広く勘
> へて、寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷へる才能ある畜生とかけるなり。

2017年7月4日火曜日

都議会選挙の結果について

 7月2日に投開票が行われた東京都議会選挙では、小池都知事率いる都民ファーストの会
が圧勝し、自民党は歴史的な惨敗を喫した。

 そして公明党は、相変わらず手堅く全候補者を当選させた。今回の選挙結果について、
都の選挙管理委員会事務局が公表したデータに基づき、簡単な分析を試みてみたいと思
う。まず、当選者数が近い3党について、比較する。

 自民党  当選者数 ― 23(人) 得票数 ― 1,260,101(票)
 公明党  当選者数 ― 23(人) 得票数 ―  734,697(票)
 共産党  当選者数 ― 19(人) 得票数 ―  773,722(票)

 上記3党の中では、公明党の得票数が最も少ないが、50万票以上多く得票した自民党と
同数の候補者を当選させている。しかも、共産党よりも得票数が少ないにもかかわらず、
当選者は多い。

 この数字から、創価学会・公明党が非常に効率的に選挙戦を実行したことが見てとれる。
有権者の総数、投票率、自党の獲得見込み票数を、かなりの精度で予測し、当選可能な数
だけを立候補させ、学会員をF取りに動員した成果であろう。

 中央の指示のもと、党全体にとって最適の戦略を、一糸乱れず遂行する能力は見事であ
るが、一方で個を完全に抑圧する全体主義的な統制が機能しているともいえよう。

 公明党の得票数からいえることが、もう一つある。選挙管理委員会によると、投票日当
日の有権者総数は、11,081,157人だったという。つまり公明党は、全有権者の6.6%の票
で、都議会の定数127議席の約18%を占める議席を獲得したのである。

 公明党の得票数は、他党と違い、ほほすべてが組織票だと考えられる。投票率が上がっ
たとしても、公明党に票を投じる創価学会員が増えることはない。公明党の支持者は、イ
コール創価学会員であり、彼らが世間一般と思想信条において、大きく立場を異にしてい
ることは論をまたない。

 社会との等質性に乏しい異質な少数者の意見が、過剰に代表されることは、民主主義の
健全性にとって脅威となりかねない。

 都民ファーストの会が躍進したとはいっても、単独で過半数を制したわけではなく、公
明党が行使するキャスティングボートが、都議会でも大きな意味を持つことになる。

 今回の選挙で自民党が大敗した一因には、「都議会のドン」が陰で権勢を振るい、都政
を利権化してきたことへの批判票が、都民ファーストの会に向かったことがあると思われ
るが、先代の「都議会のドン」藤井富雄氏がいまだに顧問としてのさばる公明党に、都議
会のキャスティングボートを与えてしまったことは、小池都知事が推進しようとする都政
改革にとって、大きな障害となる懸念があるのではないだろうか。

 創価学会・公明党が、その実勢を大きく上回る影響力を行使可能だったたのは、投票率
が低いために、必ず選挙に行く彼らの組織票が効果を上げてきたからである。

 参考までに、今回の選挙で公明党候補の苦戦が伝えられていた、豊島区の選挙結果に基
づき、投票率の上昇が公明党候補の当落にどう影響するかを説明する。豊島区(定数:3)
の投票率は、50.12%で各候補の得票数は、以下のとおりであった。

当 本橋ひろたか(都民ファーストの会)44,556
当 長橋 けい一(公明党)      20,381
当 米 倉 春 奈(日本共産党)    20,139
落 堀 こうどう(自由民主党)    18,647
落 泉谷 つよし(民進党)       7,825
   合 計             111,548

 仮に投票率が55%で、増加分の票が公明党以外の候補に、今回の得票数に応じた割合で
配分されたならば、選挙の当落は次のようになると試算される。

当 本橋ひろたか(都民ファーストの会)49,864
当 米 倉 春 奈(日本共産党)    22,538
当 堀 こうどう(自由民主党)    20,868
落 長橋 けい一(公明党)      20,381
落 泉谷 つよし(民進党)       8,757
   合 計             122,408

 この試算では、投票率がもう5%ほど高ければ、公明党候補が落選し、かわりに自民党候
補が当選していたことになる。

 上記は、公明党が実際に獲得した票は、学会員が限界までF取りに励んだ成果で、投票
率が上がっても、公明党への投票はこれ以上増えないという仮定に基づく試算に過ぎない。
しかし、そう無理のある仮定ではないと思う。

 反社会的カルトが政治に過剰な影響を及ぼし、行政を私物化する悪夢の実現を阻むため
には、有権者がもっと政治に関心を持ち、投票という権利をよく考えて行使することが最
善なのである。

 創価学会は「総体革命」と称する権力への浸透工作を、いまだに断念していない。日本
を彼らの思うままにさせないためには、有権者すなわち日本国民の意思と行動が必要であ
ることを、一人でも多くの方に認識していただきたい。

2017年7月1日土曜日

これまでのまとめ

 なんとか、ブログを4ヶ月が続けることができました。ブログ執筆の材料とするため、
創価学会について書かれた本を何冊も読みましたが、調べれば調べるほど、創価学会がい
かに異常なカルトかが、より明瞭になっていくように感じます。

 これからも、創価学会の反社会性について、発信し続けたいと思います。しかし、実は
何かと忙しく、本を読む時間が十分とれないことが、目下の悩みのタネとなっています。
『新・人間革命』を20巻まで入手したのですが、まだ手つかずです。

 ブログ更新のペースはなるべく維持したいのですが……。
 何とか頑張ってみますので、引き続きよろしくお願いします。


◎ 広宣部・教宣部と嫌がらせの実態

  広宣部と教宣部

  広宣部・教宣部が連携した嫌がらせの手口

  教宣部創設の経緯

  広宣部の実態

  「脱会者は自殺に追い込め」①

  「脱会者は自殺に追い込め」②


◎ 創価学会 金満教団への道

  創価学会の金集め①

  金庫事件(金集め①-補足)

  創価学会の金集め②

  「牛乳ビンの念珠」とは?(金集め②-補足)

  創価学会の金集め③


◎ 収奪的な金集めの手口

  財務督促あるいは〝創価学会仏〟の金口直説

  財務をすれば万札が降ってくる?

  財務に苦しめられる末端学会員

  学会幹部に良心はないのか?

  創価学会・公明党と生活保護

  公明党による口利きの代価


◎ 『人間革命』の欺瞞

  創価学会の信心の現証について

  そもそも『人間革命』とは

  『人間革命』と結核

  紙を飲む宗教①

  紙を飲む宗教②

  紙を飲む宗教③

  〝狸祭り事件〟について

  セックス&バイオレンス

  創価学会常住の本尊について

  「日蓮」を名乗る前の日蓮

  『人間革命』の執筆体制と長期休載

  大阪事件

  「長男はツギオで、次男はダイサク」

  エレベーター相承のウソ

  池田大作と戸田城聖の〝遺品の刀〟


◎ 人物

  戸田城聖のビジネス(戦前・戦中編)

  戸田城聖のビジネス(戦後編‐①)

  戸田城聖のビジネス(戦後編‐②)

  戸田城聖のビジネス(戦後編‐③)

  アル中・戸田城聖

  池田城久の死

  福島源次郎氏について

  藤原行正氏について

  藤井富雄氏について


◎ 教義の矛盾(折伏の被害にあっている方はお役立てください)

  私説〝五重相対〟(創価学会の矛盾)①

  私説〝五重相対〟(創価学会の矛盾)②

  私説〝五重相対〟(創価学会の矛盾)③

  私説〝五重相対〟(創価学会の矛盾)④

  仏像を拝むのは謗法か?

  蔵の財、心の財

  創価学会は仏教ではない①

  創価学会は仏教ではない②


◎ 創価学会 基礎知識

  2chスレ立て用テンプレ1~5(創価学会がカルトである理由①)

  2chスレ立て用テンプレ6~9(創価学会がカルトである理由②)

  創価用語の基礎知識①

  創価用語の基礎知識②

  創価学会の財力

  折伏大行進の実態

  折伏成果の水増しについて

  創価学会の実世帯数


◎ その他

  「はじめに」および2ch過去スレ

  憧れの池田センセイ

  創価学会とオウム真理教

  創価学会が社会から受け入れられない理由

  変わらない創価学会

  〝福子〟として育てられるということ

  池田大作在日説について

  誰が公明党に投票しているか?