2017年6月27日火曜日

創価学会の実世帯数

 創価学会は現在、日本国内に827万世帯の会員がいると公称している。だが、過去に折
伏実績の水増しが行われてきた経緯がある上、マイ聖教と称して公称発行部数550万部の
『聖教新聞』を、一世帯で複数部購読する慣行までが創価学会内にはあるため、彼らが自
称する数字をそのまま信じることはできない。

 話は飛ぶようだが、創価学会=公明党の選挙における票読みの正確さには定評がある。
地方選挙では当落ラインの予測に基づき、複数の候補をほぼ横並びで当選させる芸当をみ
せることも少なくない。

 当然のことながら、選挙でそこまで正確な票読みを可能にするためには、公明党に投票
するであろう有権者数、つまり当該選挙区に居住する創価学会員の数を、かなりの精度で
把握している必要がある。

 創価学会には「統監」と呼ばれる、学会員のデータベースが存在しているという。この
統監に登録されている学会員の総数は、折伏によって本尊を受けとらせた数を積み上げて
算出した〝827万世帯〟とは、異なっているものと思われる。

 残念ながら、統監上の学会員の実数は非公表である。学会内部でも一部の幹部しか知り
得ない、トップシークレットなのではないだろうか。

 私がこれまで読んできた創価学会関連の書籍の中で、このトップシークレットに迫る信
頼性の高い具体的な数値が示されていたものは、男子部長・青年部長という、学会内での
本流を歩み副会長にまで出世するも、日蓮正宗との抗争の責任を取らされ失脚した、福島
源次郎氏の著書『蘇生への選択』である。当該部分を以下に引用する。


>  現在は三〇〇万世帯を超えず、二五〇万世帯前後です。その数字も、全く信心せず
> に御本尊がある(ご安置でもない)というだけの名目世帯がかなり含まれている数字
> です(全国平均五%以上と推定される)。
>  したがって名誉会長が誇らしげにいう七五〇万世帯折伏というのは、全くの架空で
> あり、虚偽の数字なのです。いうなれば、組織の御本尊下付申請(寺院への)の報告
> 数字を単純に加算した累計数でしかありません。これには退転者や、大躍進の昭和三
> 十年代後半の組織間の激しい成果競争の中で、偽の御本尊送りが激増し、この水増し
> 分の数字がかなり含まれて合算されているのです。
>  この点について、当時の会内でも、良識派の幹部が問題視し、実数統監にするよう
> に改善策が強く要望されてきたのですが、実現しませんでした。昭和四十五年の言論
> 問題を契機とした一連の改革で、男子部(当時私が男子部長でした)が、まず実数統
> 監に訂正し、他の組織もそれにならい、縦の支部制からブロック制を基本にする変更
> の中で、全国もやっと実世帯に直されました。この時点で二四〇万世帯に届きません
> でした(公称世帯数はそのままで通した)。
>  即ち、差引き五〇〇万世帯余というのが、いいかげんな折伏の結果の御本尊返却・
> 放置・捨棄などの退転であり、又虚偽の御本尊送りの架空数字であったわけです。
>  それから二十年、折伏で多少世帯数が伸びても、一方では退転者・行方不明者(移
> 転による組織離脱)も増え、結局横ばいという状態が続いてきました。私が副会長を
> 辞任した時点でも二五〇万世帯に達せず、組織担当幹部はそれぞれ実世帯増のために、
> どれほど苦労してきたかわかりません。

 ※ 引用冒頭の「現在」とは、『蘇生への選択』が出版された平成2年(1990年)時点
  を指すものと思われる。

 引用中にある「名誉会長が誇らしげにいう七五〇万世帯折伏」が達成されたと、創価学
会が主張している年は、昭和45年(1970年)である。実際には、その三分の一にも届いて
いなかったのだ。

 また、福島氏が副会長を辞した年は、昭和54年(1979年)である。この時でも、250万
世帯に届いていなかったというのだから、その後の800万世帯達成も、過大な数字と見る
べきだろう。










参考資料:福島源次郎著『蘇生への選択』,藤原行正著『池田大作の素顔』,『週刊ダイヤモンド』(2016年6月25日号)

 学会幹部はこうした実態を知っていながら、現在もなお〝創価学会により広宣流布が達
成された〟などという、ウソ八百を末端信者に吹き込んでいるのだ。

 創価学会が言っていることは、何から何までウソばかりである。「お金のかからない宗
教」というのも、「唯一の正しい宗教」というのもウソ。会員数まで、実際の三倍に見せ
かけるという大ウソ。

 創価学会をインチキ宗教と呼ばずして、他にインチキ宗教があるだろうか。
 学会員の皆さんも、いい加減に目を覚ますべきだろう。

2017年6月24日土曜日

折伏成果の水増しについて

 現在の創価学会は、827万世帯の会員がいると公称している。
 しかし、公称発行部数550万部の『聖教新聞』を、一世帯で複数部とる学会員が多数い
たり、公明党の得票数が公称世帯数より少なかったりすることから、学会が主張する数字
は、過大なのではないかと疑われる。

 創価学会の公称世帯数は、学会が授与した本尊の数に基づくという。つまり、世帯数が
怪しいということは、折伏実績の水増しが疑われるということである。今回はこの点につ
いて論じたい。

 前回、戸田城聖が創価学会の第二代会長に就任するにあたって、折伏大行進の号令を発
したことを述べたが、その際に戸田は、以下のようにも述べている。


>  現代において、仏に等しい境涯に立ち、この世界を心から愛する道に徹するならば、
> ただ折伏以外の方法は、すべてなにものもないのであります。
>  これこそ各人の幸福への最高手段であり、世界平和への最短距離であり、一国隆昌
> の一大秘訣なのであります。故に、私は折伏行こそ、仏法の修行中、最高のものであ
> るというのです。
 (『人間革命』第五巻より引用)


 折伏のマニュアルである『折伏経典』にも、「たとえ御本尊を信じていても、折伏を行
じなければ、それは摂受であり、大利益を得ることはできない」と書かれている。

 新規会員の獲得こそが最高の仏道修行であり、現世利益につながる、逆に折伏をしなけ
れば、ご利益は得られないという教義が、創価学会の勢力拡大の原動力となったのは事実
であろう。

 しかし、その一方で、無理な折伏目標を掲げたことは、末端にしわ寄せをもたらした。
 『朝日新聞』(昭和31年〔1956年〕7月11日付)に、「酒を飲ませて布教 成績競って水
増し」と題して、創価学会の折伏についての記事が掲載されているので、一部引用する。


>  創価学会の下部組織には、信者を集めるためにこんな布教運動の事例がある。ある
> 一流土建会社の青年信者が、何も知らない大学生らの青年たちを集めて入会させ、そ
> のお礼に銀座のバーで大盤振舞をしたという話だが、この会合はこの春ごろからつい
> 最近まで二、三回行われたもので、記者は某日、何回目かの会合に大学生になりすま
> して同行してみた。
>  その日の集合は午後五時、国電中央線信濃町駅前。(中略)記者が後輩の大学生か
> らこれを聞いたのは集合日の二日前。五時を回ったころそれらしい青年が三、四人駅
> 前に集っていた。まもなく引率責任者らしい青年が現われ、われわれを駅前から小型
> タクシーでそこから程近い土建会社の独身寮へ。ここでいきなり創価学会の「御本尊
> 御下附願」と印刷した紙に住所、氏名、生年月日を書かされた。(中略)記者は偽名
> を使った。ところが同行の青年たちは引率者から「この前は本名を使ったから、きょ
> うは知人名またはデタラメな住所、氏名、年齢を書くように……」と注意されていた。

 ※ この後、記者たちは寺院に連れていかれ、題目を唱えるなどの入信の儀式を受ける。

>  七時半、再び車で出発した。(中略)そして銀座並木通りの小さなバーに入った。
> ここで八時半ごろから閉店の十一時ごろまでビールをのんだ。(中略)この間、創価
> 学会の話は一言もでない。またこの日の会合の目的も明らかにされなかった。ただ一
> 人が本名以外の名をかたって数人の仮空の信者を作ったことだけが分かった。


 この出来事の数日後、この記者が上記の架空入信の首謀者に取材したところ、「月々の
折伏成績はそのまま個人の成績に反映するので組長、班長から無言の圧迫を受け、どうし
ても信者を増やそうという競争意識にかられる」との答えが返ってきたという。

 『週刊新潮』3000号記念別冊に掲載された、特集「雨後の筍『新興宗教』裏面史」にも、
折伏実績水増しの実態が記されている。


>  入信直後の信者も折伏に駆り出される。座談会場には信者ごとの勧誘成績表が張り
> 出され、聖教新聞には支部ごとの成績が掲載された。
> 「支部内では、自己目標を達成できないと、立ったまま目上の信者から延々と罵られ、
> 座りこむと“立て!”と、さらに吊るし上げられる。保険会社が勧誘員にハッパをかけ
> る手法は、学会のやり方を真似たものと言われています」
 (中略)
>  ある地区部長の自宅は、いつも浮浪者でごったがえしていた。
> 「地区部長と地区員たちが上野の浮浪者を連れてくる。きれいな衣類を与えて床屋に
> 行かせ、寺で御本尊を受けさせて入信させる。でも窮屈な勤行をさせるので、浮浪者
> たちは2、3日もすると御本尊を置いたまま、みんないなくなっちゃう。それでまた、
> 地区部長らは上野まで浮浪者を探しに行く」

 ※ 上記引用中のコメントは、池田大作を第三代会長に押し上げた功績で、初代公明党
  委員長にまで上り詰めた、原島宏治氏の長男・原島昭氏によるものである。


 『人間革命』には、戸田城聖は会長就任時に、75万世帯という折伏目標を宣言し、それ
を実現して死去したと述べられている。


>  だが、戸田の予言的確信が的中するには、わずか七年足らずの歳月で充分であった
> のである。昭和三十二年十二月、学会の総世帯数は七十六万五千を達成するにいたっ
> た。この日から三か月後、翌三十三年四月二日、彼は安詳として逝ったのである。
 (『人間革命』第五巻より引用)


 『人間革命』で主張されている、76万5千世帯という折伏成果をそのまま信じることは
できない。『朝日新聞』や『週刊新潮』に述べられているような手口による、水増しされ
た数字と考えるべきだろう。

 池田大作が創価学会の第三代会長に就任した後も、無茶苦茶な折伏により、実態を伴わ
ない過大な数字を報告するという悪習は続いた。

 池田大作は、昭和40年代初頭に末端における折伏の実態調査を命じたことがあった。そ
の調査を担当した元学会職員・小多仁伯氏が、著書『池田大作の品格』で、調査によって
明らかになった実態を述べている。

 小多仁氏らの調査チームは、東京都内の数か所で実態を調べたが、ある駅で異様な光景
を目撃したという。


>  よく見ると、中年の女性たち二名がペアを組み、改札から次々と出てくるサラリー
> マンらしき人たちに近寄り、そのサラリーマンの両脇に手を回して何やら囁いている
> 光景があちこちで見受けられるのです。
 (中略)
>  こうして、客引きペアの大活躍が約一時間くらい続きました。客引きまがいのペア
> は折伏する寺院会場に送り届けると、すぐ戻ってくるのです。かなり組織的に訓練さ
> れており、手慣れた彼女たちは、次の獲物をとるような怪しい雰囲気でした。

 
 小多仁氏らはその後、折伏会場となっていた寺院で、連れて来られたサラリーマンたち
が、学会員に取り囲まれて折伏されている現場を目撃した。


>  その中で観念した新来者は前に進み出て、ご授戒の儀式に移る準備をしています。
 (中略)
> だが、柱の一角で揉み合っている人たちがいます。それは学会員の折伏に反抗し、押
> し問答の末、授戒を受けたくないと柱にしがみついているのです。
>  その柱にしがみついている人を、なんと十人がかりで強引に柱から離そうとして、
> その人の指を全員で一本、一本こじ開けているではありませんか。私は、いくら調査
> 隊とはいえ、その無軌道ぶりに憤りは頂点に達してしまい、「このグループの責任者
> は誰か!」と叫んでいました。


 小多仁氏は、学会の本部職員であることを明かし、即刻この暴挙を止めさせたそうだが、
寺院の軒下には、授与されたばかりの本尊が投げ捨てられていたという。つまり、形だけ
入信して難を逃れ、もらった本尊は捨てて帰った人がほとんどだったということだろう。

 小多仁氏らは、このような実態は改めるべきとの意見を添えて、調査結果を報告したも
のの、同書によれば、改善はされなかったそうである。

 現在でも、複数の学会員で一人の一般人を取り囲み、入信を迫ることは少なくない。そ
の際には、創価学会の折伏であることを隠して、別の名目で呼び出すのが通例である。

 マスコミは創価学会の問題点を報道しなくなったが、強引な折伏は決して過去の問題で
はない。創価学会員に対しては、気を許すべきではないと思う。

 創価学会員の実数は、彼らの自称よりも少ないことは、ほぼ確実である。しかしながら、
選挙の実績などをみると、決して侮れない勢力であることも事実だ。

 学会が実力以上の影響力を行使できている背景には、社会の無関心がある。創価学会の
危険性を認識している人ならば、そのようなカルトが政治的影響力を持つことを、好まし
く思うはずがないし、選挙で棄権することもないだろう。

 創価学会の政治部門に過ぎない公明党が与党になることは、国政であれ、地方自治であ
れ好ましいことではない。選挙は、カルトに“No!”をつきつける貴重な機会であること
を、一人でも多くの有権者にご理解いただき、投票に足を運んでいただきたいものである。

2017年6月21日水曜日

折伏大行進の実態

 戸田城聖は、昭和26年(1951年)5月3日の会長推戴式において、以下のように宣言し、
学会員に対して大々的な折伏の開始を号令した。


>  私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は私の手でいたします。願わくば、それ
> までに宗門におかせられても、七十五万だけやっていただきたいものである。もし私
> のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出して下さるな。
> 遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい! 
 (『人間革命』第五巻より引用)


 創価学会はこれ以降、組織的に強引な折伏を推進した。世に言う「折伏大行進」である。
 戸田の会長就任に際して、推戴名簿に署名した学会員の数は三千名であったというから、
75万世帯という数は途方もない目標である。

 創価学会はこの目標を達成するために、相当な無理をした。当時の新聞記事から、創価
学会の折伏がどのようなものだったかを振り返りたい。

 『朝日新聞』(昭和32年〔1957年〕6月26日付)には、「創価学会の細胞 炭労などを食
い荒らす 奇抜な説得方法で」との見出しの記事が掲載されている。


>  創価学会が炭労組織に食いこんだ理由には、次のような信者獲得戦術があげられて
> いる。
>  創価学会に入れば、財産が出来、ケガをしない。病気やケガをしても医者にかから
> なくとも直ぐ全快する。「死者もよみがえらせた例がある」と、次のような話をして
> 説得する。九州のある炭鉱の労組員が、生活苦から自殺した。首をつってから数分た
> っているので、家族も死んだものと思い、そのまま寝かせて置いた。すると社宅内の
> 創価学会員が数人かけつけ、大声でお題目を唱えると、数分後にその労組員はムクム
> ク起き上がり、生きかえった。この〝奇跡〟を見ていた労組員や家族は、先きを争っ
> て信徒になったというのだ。
>  このように、労組員の貧困や科学的知識の欠如につけこんで組織を荒らされている
> 炭労の各労組では、なんとか対策を立てなければ、と頭を悩ましている。


 いかにも創価学会らしいバカげた勧誘方法だが、記事にも書かれているように、炭鉱労
働者の中には、このような与太話に騙されて入信する者も、少なくなかったようである。

 この当時の折伏方法は「奇抜な説得」だけではなく、成果を上げるために、犯罪的な手
段に訴える学会員も少なくなかった。同記事には、以下の記述もある。


>  特異な例としては、去る十二日青森県下の某キリスト教会にその地区創価学会員五、
> 六人が押しかけ〝キリスト教は邪教だ。幹部に推薦するから入会せよ〟と同教会の牧
> 師に迫った。同牧師が申入れを断ると教壇をひっくり返したあげく、聖書を床にたた
> きつけ、土足でふみにじるなどして引揚げた。


 指導的立場にある者を改宗させれば、信者を一網打尽に獲得できると考えての行動なの
であろうが、それにしても酷い話である。

 『毎日新聞』(昭和30年〔1955年〕11月20日付)には、「新興宗教の暴力」と題して、
読者から寄せられた、宗教勧誘に関するトラブルについての投稿に基づく記事が掲載され
ている。その一部を以下に引用する。


>  投稿の内容を要約すると、朝八時半から夕方五時までねばり体の弱い私(主婦)に
> 入信を決心させ、主人の帰らぬうちにせめたてて神だなを焼かせた。あやうく主人か
> ら離縁されるところだったが、近郷では離縁された人もあり、多くの人が迷惑してい
> る(宮城県一主婦)病気の細君を近所の信者が訪れ脅迫的に夜中の二時までがん張り、
> 心身疲れた細君が、それではよろしく、というが早いか仏壇の阿弥陀仏、観音像、大
> 神宮などをその場で取壊し強制入会をさせた(館林市一住職)


 この記事では、問題を起こした教団名の名指しはなされていないが、当時、このような
トラブルを頻繁に起こしていた宗教といえば、まず第一に創価学会である。

 毎日新聞社会部編『暴力新地図』には、創価学会の折伏による被害について、より具体
的に記述されている。


>  比較的批判力に乏しい人、あるいは無知文盲の人、悩みを持つ人などの弱みにつけ
> 込んで、
> 「創価学会に入れば幸福になれる」
>  とか、
> 「あなたの子供は近く死ぬ」
>  などと人の意表をつく殺し文句を並べたてて入会をすすめる。一たん入会はしたも
> のの教義に疑問を持ち信仰をやめようものなら大変だ。本社への投書によると、世田
> 谷のある主婦は、信仰をやめたとたん周囲の信者たちから、
> 「あなたの一家はドン底生活に落ちる」
>  と毎日のように脅され、とうとう気が狂ってしまったという。とにかく同会の暴力
> 的布教方法に迷惑している人は非常に多い。昨年七月下旬千葉県小湊町関戸の日本キ
> リスト教団千葉教会の信徒に入会を強要、屋内に上り込んで聖書を焼き捨て館山法務
> 局に人権侵害で提訴されたほか、事件になったものでも北区田端町三六三真言宗与楽
> 寺や八王子市子安町一の一三九日蓮宗仏立宗清流寺が襲われたのを初めとして、真言
> 宗尼僧の脅迫(埼玉県)観音堂を焼き払った事件(福島県)大阪では他宗派の本尊略
> 奪や他宗寺院に法論と称しての集団的強談、強要十数件など相当数にのぼっている。

 ※ 文中に「昨年」とあるが、上記引用の初出は昭和31年8月13日付の新聞記事なので、
  言及されている事件は、昭和30年(1955年)に起きている。


 宗教の勧誘の範疇を超えた、異常な犯罪の数々である。こうした事件についての伝聞や、
実際に被害を受けた人の経験が、現在でも語り継がれていることが、〝創価学会は暴力的
で危険な集団〟というイメージが拭い難いものとなっている原因であろう。

 現在でも、学会員からしつこい勧誘を受けて迷惑している人は多いが、さすがに警察沙
汰になるような事件は聞かれなくなった。

 しかし、それは創価学会の反社会的な体質が改まったからではない。組織力を活かしつ
つ、スマートフォンの普及などの技術の進歩を悪用して、より陰湿・巧妙な手段をとるよ
うになっただけである(「広宣部・教宣部が連携した嫌がらせの手口」参照)。

 多くの創価学会員は、上述のような犯罪そのものの折伏を悪いことだとは思っていない。
これまで何度も述べたが、彼らの教義では、仏法=創価学会は、国法(法律)や世法(常
識)よりも優先することになっている。

 しかも、折伏は自分だけでなく、相手にもご利益をもたらすのだから、相手の迷惑など
考える必要などない、むしろ感謝されていいくらいだという指導を、創価学会はこれまで
学会員に対して行ってきた。

 学会員たちは、このような反社会的な思想を「唯一の正しい宗教」だと思い込み、〝捕
まらないように、表沙汰にならないようにやりさえすれば、問題ないのだ〟と考えて、迷
惑行為を続けてきた。こんな奴らに、世の中を好き勝手にさせてはならない。

 そのためにも、日本がまだ貧しく、満足な教育を受けられなかった者が多かった時代に、
人々の無知につけ込んで、非科学的なたわ言で誑かしたり、暴力や脅迫で屈従させたりす
るという、卑劣な手段で勢力を拡大した「折伏大行進」の実態を、創価学会の本質を表す
ものとして、今後とも長く伝えていく必要があるだろう。



補足 戸田城聖は本当に〝75万〟という数値目標を提示したか?

 『人間革命』第五巻には以下の記述がある。

>  戸田城聖が会長就任のこの時に宣言した、七十五万世帯の折伏達成という稀有の確
> 信は、いささかの狂いもなかった。しかし、当時の誰ひとり、それを信ずることはで
> きなかったようである。第一、『聖教新聞』第三号の、推戴式を報道する記事のどこ
> にも、七十五万という数字は見あたらないのである。

 また、『聖教新聞』(昭和27年5月10日付)には、戸田城聖が示した目標として、「断じ
て百五十万の世帯にならなければ」とあるという(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』
による)。

 戸田城聖は、58歳という比較的若い年齢で死去したが、「入信すると病気がなおる」と
主張して信者を獲得してきた宗教の教祖が、五十代で死んだという事実は、信仰への疑い
を引き起しかねない事実である。

 75万という数値目標を戸田が示したという逸話は、戸田が死んだ時の創価学会の勢力を、
前もって予言されていたものであったかのように見せかけることで、戸田の早い死を正当
化しようという後づけの捏造ではないかと思われる。

2017年6月19日月曜日

池田大作在日説について

 2chなどネット上には、池田大作は在日朝鮮人、または帰化した元在日であるという風
説が根強くある。

 それによると池田の本名は成太作(ソン・テジャク)で、親の代に朝鮮半島から日本に
渡ってきたのだという。

 私は創価学会や池田大作について書かれた本を、それなりの数読んだが、この池田在日
説を裏づける記述は、ついぞ目にしたことがない。
 参考までに、池田の出自についての記述を代表的な創価批判本から引用する。


>  池田大作は昭和三(一九二八)年一月二日、東京府荏原郡入新井町大字不入斗のし
> がない海苔製造業者・池田子之吉、妻、一の五男として生まれた。
 (中略)
>  池田の家は子之吉の祖父の代から大森で海苔製造に従事し、かなり繁昌した一時期
> もあった。また、祖先は元禄時代に兵庫から千葉に移住した武士だという口伝えも残
> っているらしい(央忠邦『池田大作論』)。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 上記によれば、池田家は武士の末裔だという口承があるらしいことになっているが、そ
れはウソだという指摘もある。


>  池田大作は、昭和五十年頃、密かに自分の家系を調べ、家紋の由緒を詮索していた
> ことがあった。その頃、私に話したところによると、「池田家は武士の出で、北海道
> で手広く開拓事業をやっていた。その子孫が、大森に来てノリ屋を始めたのだ。鹿児
> 島に〝池田湖〟というのがあるが、我が祖先とかかわりがある。家紋や系図を調べる
> と、祖先は源氏の流れを汲む武士であったと、調べてくれた専門家が言っている……」。
>  だが、その後、私の調べた限りでは、これらは全くの作りごとであり、数代先まで
> 東京湾でノリ採集や漁師をしていた。由緒正しい血統書つきの平民の出である。
>  池田大作の出生や少年時代については、御用新聞記者・央忠邦氏の著作や本人の書
> いた随想文などで、極めて美化されている。
 (中略)
>  ところで、私の手元に池田大作の戸籍謄本がある。それには、「名『太作』を『大
> 作』と変更、昭和弐八年拾壱月伍日受付」と記入されてある。
>  池田大作は、生まれてから二十五年間〝タサク〟が本名であったのを、何らかの理
> 由で〝ダイサク〟に変えた。
 (中略)
>  貧乏で、目立たぬ子供だった大作は、しかし、その名前のせいで、仲間から「タサ
> ク、タサク!」と呼ばれて親しまれていたのである。
 (山崎正友著『懺悔の告発』より引用)


 溝口敦氏は、数多くの著作で知られるノンフィクション作家である。また山崎正友氏は
創価学会の元顧問弁護士であり、往時は共産党や他の新興宗教など、学会と敵対する組織
への調査の責任者だった。

 いずれも情報収集のプロと言っていい人物だが、その両者とも池田大作が在日、あるい
は元在日だとは述べていない。池田の出自にゴマカシがあるとすれば、「池田家は武士の
出」などと偽ろうとしたことくらいのようである。

 池田大作在日説は、真実とは言い難いと思う。しかしながら、火のない所に煙は立たな
いものだ。このような風説が、まことしやかに流布し続けている背景は何だろうか。

 一つには、創価学会が〝日本と韓国〟について言及する時、「日韓」ではなく、「韓日」
という表現をよく使うことが挙げられる。「創価学会 韓日」で画像検索すれば、該当す
るものが多数見つかる。

 特に有名なのは、創価学会の福岡研修道場にある「韓日友好の碑」であろう。この石碑
には、日本を「小国」と呼び、韓国を「師恩の国」と述べる池田の詩が刻まれている。

 創価学会および池田大作が、ここまで韓国を立てるのは、学会員には在日が多いので、
彼らにおもねっているのではないか。在日の学会員が多いことは、池田在日説が広まっ
た、もう一つの背景でもあろう。

 『人間革命』第五巻に、昭和26年(1951年)6月10日、創価学会の本部婦人委員として
52名が選抜され、新宿のフランス料理店で会合が開かれたことが記されている。
 この時選ばれた婦人委員の中には、在日朝鮮人の女性もいたという。


>  会合の雰囲気は更に高潮した。一人の朝鮮の婦人が立ち上がった。柳沢礼子という
> 名の中年の純真な婦人である。額は輝き、なかなかの元気ものである。
> 「私は、はじめて故国の不幸が、何に原因しているかを教えていただきました。それ
> は、先日の常泉寺で行なわれた会長推戴式の時です。
 (中略)
>  どうか先生、わたくしたちの同胞を救ってあげてください。お願いいたします。そ
> のためなら、この私にどんなことでもお命じください。同志の皆さまも、どうかよろ
> しくお願いいたします」
>  この切々とした婦人の訴えは、並みいる人々の胸に惻々と迫った。――かつて、あ
> る学者がいった。力なき空転の有名なる愛国者あり、無名の命がけの真実の救国者あ
> り、と。
>  戸田は柳沢を傍に招いた。そして、涙ながらの彼女と手をとって握手した。


 この会合についての記述で、戸田城聖以外で名前を記されているのは「柳沢礼子」だけ
である。創価学会では、その創成期から在日の会員の存在感が、決して小さなものではな
かったことがうかがえる。

 また、創価学会が池田を宣揚するために出版した『池田大作の軌跡』に、韓国で宗教社
会学を研究する済州大学教授・趙誠倫氏が、日本で創価学会について調査研究を実施した
ことが記されている。

 同書によると、趙教授は、韓国で布教活動を行った日本の新興宗教の多くが、結果とし
て上手くいかなかったにもかかわらず、韓国SGIは成功した理由を調べるために、平成
18年(2006年)に交換教員として日本に赴任し、在日コリアンの学会員に面接して調査を
行ったという。以下、同書から引用する。


>  ある在日の学会員の近所に、韓国人の男が引っ越してきた。
>  日本に来たばかり。祖国の言葉で話がはずんだ。男が土産話を始めた。
> 「この前、韓国で聞いたんです。実は、日本には、すごい人がいるんですよ。韓国の
> ことを『日本の兄の国』『文化大恩の国』と称えているんです」
>  なんという名前だったか、必死で思い出そうとしている。
>  学会員は吹き出しそうになった。
> 「それは、僕の師匠ですよ!」
>           *
>  面接調査を終えた、済州大学の趙。いくつかの注目すべきポイントがあった。
>  第一に、学会の大衆性。
>  創価学会は国籍の区別なく、苦悩にあえぐ大衆を救済してきた。学会の組織は、在
> 日コリアンが日本で生き抜く上で、他の在日コミュニティーよりも重要な意味があっ
> た。
>  第二に、社会意識の向上。
 (中略)
>  第三に、池田会長の存在。
>  精神的な支柱である。朝鮮半島への認識にしても、これまでの日本人とは、完全に
> 発想が逆転している。日本では他に類を見ない指導者である。
>  ある時、趙は、在日三世の男子学生に取材した。彼は「池田会長に続き、韓日を結
> ぶために働きたい」と胸を張った。
 (『池田大作の軌跡Ⅲ』より引用)

 ※ 「池田会長」とあるが、池田大作は創価学会の名誉会長であると同時に、SGIの
  会長でもあり、上記ではSGI会長としての立場に重きが置かれている。


 創価学会には、在日にとって「他の在日コミュニティーよりも重要な意味」があるのだ
という。確かに創価学会の政治部門である公明党は、これまでに何度となく外国人参政権
法案を国会に提出するなど、在日の代弁者として行動してきた。

 元公明党参院議員・福本潤一氏は、著書『創価学会公明党「金と品位」』で、「外国人
の参政権問題は、池田名誉会長からの〝特命〟だった」と明かしている。

 公明党の山口那津男代表は、佐藤優氏との共著『いま、公明党が考えていること』で、
創価学会・公明党の性格について説明している。同書で山口氏は、自民党が「国民政党」
を標榜していることと対比して、公明党について以下のように述べている。


>  公明党の場合、自民党とは違って「国民」という言葉は使わず「大衆」一本です。
> 先ほど申し上げたとおり、「国民」という言葉には日本で暮らす一部の人を排除する
> 要素があります。公明党が一緒になって戦うのは「国民」ではなく、あくまで「とも
> に暮らす大衆」である。


 山口氏のいう、国民から排除される「日本で暮らす一部の人」とは、どのような人たち
のことだろうか。同書において山口氏は、学生の頃、創価学会の集会に参加して受けた印
象を、次のように振り返っている。


>  在日韓国・朝鮮人も含め、創価学会には実にさまざまな人がいます。そういう人た
> ちが一堂に集まって座談会を開き、「今日は一つためになったな」「今日はこういう
> ことを決意して明日からがんばろう」と語り合う。創価学会とは本当にすごい場だと
> 思いました。 


 創価学会・公明党は「国民」ではなく、在日韓国・朝鮮人も含めた「ともに暮らす大衆」
と「一緒になって戦う」のだと、公明党党首が明言しているのである。

 日本国憲法第43条は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」
と規定している。山口氏の主張は、公党の党首としていかがなものかと思うのは、私だけ
ではないだろう。

 創価学会が依然として、人権侵害そのものとも言える強引な折伏を、日本国民に対して
続けている事実を見ると、山口氏の言う「ともに暮らす大衆」の中には、学会員以外の一
般の日本人は含まれていないのではないかと、憂慮せざるを得ない。
 公明党員=創価学会員は、いったい誰に対して「戦い」を挑むつもりなのだろう……。

 以上でおわかりいただけたことと思うが、『人間革命』をはじめとする創価学会の出版
物を読むと、学会には〝在日のための互助組織〟という一面があることは明白であり、し
かも彼らは、そのことを隠そうともしていない。

 それとも学会関連の出版物を読むのは、どうせ創価学会員だけだと思って、高を括って
いるのだろうか。

 上述以外にも、かつての創価学会員が、折伏の際に他人の住居に押し入り、謗法払いと
称して、神棚や仏壇を壊したり燃やしたりしたことが語り継がれていることや、現在でも
少なくない数の創価学会員が、「鳥居をくぐると地獄に堕ちる」などと言っていることが、
〝この人たちは、普通の日本人とは違う〟という印象を与えているのだろう。

 創価学会のこのような体質が、〝在日のための宗教〟というイメージを生み、トップで
ある池田大作も日本人ではないのではないか、という噂が拡がる下地になったのである。
 


補足1 池田大作の実家の信仰について

 池田大作の実家は真言宗の檀徒だった。池田の父親・子之吉と兄・喜一の墓は、真言宗
の寺院にあったが、それでは都合が悪いので、後に学会の墓を作ったという。


>  大作の父・子之吉は生前、創価学会(日蓮正宗)とまったく関係がなかった。だか
> らこそ、いまなお学会からみたら邪宗の真言宗の蜜嚴院に墓があるわけだし、また、
> 喜一は弟、太作の戸田城聖との出会いや日蓮正宗入信(四七年八月)の約二年半も前
> にビルマで亡くなっている。にもかかわらず、後年、池田大作はそんな二人を勝手に
> 創価学会の墓にいれ、同時に二人の法名も蜜嚴院の子之吉=浄徳清道信士、喜一=忠
> 顕院英徳勝行居士とは別の子之吉=種田院法子日実居士、喜一=歓喜院法住信士とし、
> ここ高尾墓園の黒御影石に刻み込んでいたのだった。
 (野田峯雄著『増補新版 池田大作 金脈の研究』より引用)


補足2 池田大作の詩作

 創価学会が出版している池田大作名義の著作のほとんどは、ゴーストライターによるも
のと言われているが、詩や短歌については池田自身が作ったものもあるようである。

 また、『聖教新聞』の「寸鉄」欄も、元気な頃は池田が書くことが多かったらしい。
 若い頃の池田は、かなりの筆まめだったという。短い文章程度ならば、自作できたのだ
ろう。


補足3

 本文で述べた通り、私は池田在日説について否定的見解を持っている。この件について
は、説得力のある考証がまとめられているウェブサイトが複数あるので、上記だけでは納
得できない方は、そちらもご覧いただければと思う。
 以下のサイトは情報量が多く、参考になった。

 池田は朝鮮人か?

2017年6月17日土曜日

池田大作と戸田城聖の〝遺品の刀〟

 『人間革命』第五巻に、昭和26年(1951年)1月26日、池田大作(作中では「山本伸一」)
が、戸田城聖の自宅に呼びだされ、後事を託すかの如きことを言い渡される場面が描かれ
ている。


> 「伸一、今日はよく聞いてもらいたいことがある。私も最後の覚悟をしておかねばな
> らぬ時がきた。それで一切の書類を処置しているわけだが、検察当局にこちらから出
> 頭しようかと思っている。一つの非常手段だ。しかし、そうなると、相手のあること
> だ。私の身柄はどういうことになるやも知れぬ。あとの事を、いまここで明確にして
> おきたい。そこで……」
>  と、戸田が言いかけた時、幾枝はわっと泣き出した。そして、嗚咽をこらえるよう
> に泣き伏した。
>  戸田は憮然として幾枝を見ていたが、急に声をあらげて怒り出した。
> 「なんていうことだ! 将軍が追いつめられて、最後の非常手段に出ようとしている
> 大切な時に、女々しく泣くとは、いったい何ごとだ!」
>  戸田は怒りを静めながら、伸一を見すえていった。
> 「考え違いをしてくれては困る。いま大事なのは後のことだ。そこで、伸一君、私に
> もし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また大東商工のことも、
> 一切君に任せるから、引き受けてくれまいか。そして、できることなら、私の家族の
> こともだ。幾枝、よく聞きなさい」
 (中略)
>  伸一は、うるんだ瞳をあげ、戸田をみつめていった。
> 「先生、決して御心配なさらないでください。私の一生は先生に捧げて悔いのない覚
> 悟だけは、とうにできております。この覚悟は、また将来にわたって永遠に変わるこ
> とはありません」
> 「そうか。そうか。よろしく頼みます」
>  戸田は、改まって頭さえ下げるのであった。

 ※ 文中の「幾枝」は、戸田の妻・幾子のことである。


 この場面で戸田が言及している「組合」とは、彼が経営していた東京建設信用組合(作
中では「東光建設信用組合」)のことである。当時、この組合は経営破綻しており、債権
者とのトラブルから刑事告訴されていた戸田は、いつ逮捕されるかわからない身であった。

 また「大東商工」とは、後に池田が営業部長して辣腕を振るう大蔵商事のことであるが、
この頃はまだ経営が安定していなかった。この時期の戸田城聖は、実業家として進退に窮
していたといえる。

 戸田と池田の間に、実際に引用のようなやり取りがあったかは、定かではない。その後、
事態は好転し、戸田は刑事責任を問われることもなくなり、この年の5月3日に創価学会会
長に就任した。

 ここで留意いただきたいことは、戸田が池田に対し、〝もし万一のことがあったら、事
業や創価学会のこと、そして、できることなら家族のことも頼む〟と言い、池田はそれに
「決して御心配なさらないでください。(中略)この覚悟は、また将来にわたって永遠に
変わることはありません」と答えたと、池田が「恩師の真実を伝える伝記」だと自讃する
『人間革命』に書かれているという点である。

 さて、上記引用の時期から約7年後に戸田城聖は死去したわけだが、その時、池田大作
はどのように振る舞ったのだろうか。

 戸田の葬儀後の池田の行動について、石田次男氏が著書『内外一致の妙法 この在るべ
からざるもの』で述べている。孫引きで恐縮だが、以下に該当の一節を引用する。


>  恩師戸田先生逝去直後、御本葬から十日も経たないうちに、池田氏は戸田家に赴い
> て、香典四千万円の方は渡さずに、幾子奥様から、戸田先生の御遺品を持ち出し、そ
> のうちの一つとして先生御所時の刀を借り出した。
>  池田の意思ではなくて小泉筆頭理事の意向、と称して「戸田会長の御遺品は学会と
> して大切に永久保存させていただきたいので、曲げて御承諾ください。お願いします」
> と、懇願という形、お願いという形で、強引に談じ込み、いやおうなく承諾を克ち取
> ったのである。
>  吉崎区議を指揮者とする運び出し実行部隊は、トラックで運び出した。持ち出し量
> の多さが知れようというものではないか。
>  池田氏は、その後十年も十五年も経ってから、この刀を創価学会宝展へ出品した。
> 場所は八王子の東京会館。時は昭和五十八、九年頃のことである。何気なく同展を見
> 物に出かけた奥様は「その場で真っ青になって、卒倒せんばかりに驚いた」――同行
> した御子息夫人の打ち明け話――とのこと。その説明書きには「池田会長が戸田先生
> から生前に拝領した刀です」とあった。
>  いかにも精神詐欺師らしいではないか。この刀、三十余年が過ぎた現在、いまだに
> もって返されていない。貸し側が催促無しで、所有権切れになるまで、粘りに粘り通
> す気なのであろう。
 (原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用〔孫引き〕)


 これが「家族のことも頼む」と恩師から託されたと、誇らしげに書きたてた男――正確
にはゴーストライターに書かせた男――が、実際にとった行動なのである。

 しかも、原島嵩氏の著書によると、池田は恥知らずにもこの刀を「代々の会長に伝える
重宝」だと言っていたという。

 恩師が亡くなると家に押しかけてその遺品を奪い、自らの権威づけに利用する、これが
ことあるごとに「師弟の道」を口にしていた池田大作の、偽らざる姿なのだ。

 『人間革命』に描かれる弟子の模範のような「山本伸一」と、現実の池田大作とは、ど
うしようもないくらいかけ離れている。

 池田は、戸田時代をよく知る古参の学会員から、『人間革命』の記述は実際にあったこ
とと食い違っているのではないか、と指摘を受けると「あれは小説だから」といって誤魔
化したという。

 戸田城聖の息子の喬久氏は、一時期、創価学会の顧問になっていたが、後に関係を断ち、
学会が日蓮正宗から破門された際には、戸田家は日蓮正宗の檀徒であり続けることを選ん
だ。

 戸田城聖の未亡人・戸田幾子氏は平成12年(2000年)、喬久氏は平成25年(2013年)に
死去しているが、その葬儀はいずれも学会葬ではなく、日蓮正宗の僧侶を導師として営ま
れた。

 『週刊新潮』2013年2月14日号は、平成25年(2013年)1月4日に戸田喬久氏が77歳で死
去し、日蓮正宗常在寺の僧侶が導師となって葬儀が行われたと伝えている。しかも導師を
務めた僧侶は、創価学会を破門した大石寺67世法主・阿部日顕氏の息子だったという。

 喬久氏の葬儀に出席した学会員は、一部の古参幹部だけだった。
 同誌には、取材に応じた元学会幹部の言葉が掲載されている。


>  戸田先生の奥さまである幾さんは、夫が手塩にかけた創価学会が、単に池田名誉会
> 長を崇める〝池田ファンクラブ〟のように変質していくことに怒りを隠せませんでし
> た。00年に、彼女は89歳で亡くなりますが、日蓮正宗の信仰を最後まで貫き、遺言は
> 〝葬儀は常在寺で〟だったのです。


 戸田未亡人の葬儀には、創価学会からは当時の秋谷会長をはじめとする幹部数十名が参
列したが、池田大作は欠席した。
 また『週刊新潮』には、喬久氏の未亡人の話も載せられているので引用する。


>  主人は創価学会について沈黙を守り続けた。ですから、私から何も申し上げること
> はありません。とっくの昔に池田さんに渡したものですし、継いだわけでもないので、
> 主人は自分の道を歩みました。創価学会と戸田家は無関係です。


 戸田城聖の遺族は、池田大作が支配する創価学会と手を切った。そして池田は、恩師の
遺族の葬儀にすら出席しなかった。

 創価学会のいう「師弟不二」の内実がどの程度のものか、これらの事実が何よりも雄弁
に物語っているのではないだろうか。

 戸田城聖の遺族に対する池田大作のふるまいを見ていた今の学会幹部たちが、池田亡き
後に〝池田大作流の師弟不二〟を実践する可能性は大いにありそうな気がするが……。

 「永遠に変わることはありません」と誓ったことになっている池田が、師の没後、一月
経たないうちに、恩師の遺族に上述のような仕打ちをはたらいたのである。その池田の弟
子たちの忠誠心がどれほどのものか、おおよそ想像がつくというものだ。

 現在の学会会則で「永遠の師匠」とされている三代会長の位置づけも、将来的にはどう
なるものか、わかったものではあるまい。

 池田大作という軛から解放された幹部たちが、真実を語りはじめたり、池田を見習って
学会の私物化を企てたりしても、それは因果応報というものであろう。



補足 香典について

 戸田城聖の葬儀は、昭和33年(1958年)4月8日、戸田家の告別式が行われ、4月20日に
は創価学会葬が営まれた。学会葬には25万人が参加、当時の首相・岸信介も焼香に訪れた。
 また、全国から集まった香典の総額は、四千万円にも上った。

 この香典は、戸田未亡人が催促したので、葬儀の費用四百万円を差し引いた三千六百万
円が、同年6月9日になって戸田家に届けられたという(溝口敦著『池田大作「権力者」の
構造』による)。

2017年6月15日木曜日

エレベーター相承のウソ

 創価学会の第二代会長・戸田城聖は、昭和33年(1958年)4月2日に死去したが、生前、
後継者を明確に指名していなかったため、その2年後、昭和35年(1960年)5月3日に池田大
作が第三代会長に就任するまで、会長職は空位だった。

 しかし、池田大作は第三代会長に就任した後になって、戸田の死の一月ほど前の3月1日、
大石寺で大講堂落慶法要が営まれた際に、自分が後継者として指名されていた、と言い出
した。『人間革命』第十二巻には、その場面が以下のように描かれている。


>  清原かつ、森川一正もやって来て、戸田を囲むようにしてエレベーターに向かった。
>  エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。
> そして、静かだが、力をこめて言った。
>  「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、
> あとはお前だ。頼むぞ!」
>  伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。二人の眼と
> 眼が光った。
>  「はい!」
>  自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。それだけで、言葉はなかった。静
> 寂のなかに、戸田のやや荒い息遣いが聞こえた。師と弟子は、無限の生命の言葉を交
> わすかのように、沈黙したまま互いの顔を見つめ合った。それは厳粛な瞬間であった。
>  清原と森川も、緊張した表情でこのやりとりを見ていた。二人は、戸田と伸一の厳
> 粛な瞬間の姿のなかに、師から弟子への広布の継承を鋭く感じとったにちがいない。
>  それから戸田は、大きく頷くと、にっこりと微笑を浮かべた。エレベーターは六階
> に着いた。

 ※ 『人間革命』では、ほとんどの登場人物が仮名で書かれている。
   清原かつ=柏原ヤス、森川一正=森田一哉、山本伸一=池田大作。


 この逸話は、学会内では「エレベーター相承」と言われている。『人間革命』第十二巻
は、平成5年(1993年)に出版されているが、「エレベーター相承」の話は、学会機関誌
『大白蓮華』などで早くから広められていた。

 しかし、誰を第三代会長にするかについて、学会内で意見がまとまっていなかった時期
には知られていなかった話が、池田が会長になった後に広められたというの奇妙である。

 学会幹部であった柏原氏や森田氏が、本当に「エレベーター相承」に立ち会っていたの
ならば、なぜ彼らはこの話をもっと早くに言い出さなかったのだろうか。

 当時、創価学会理事だった石田次男氏が、この後継者問題について、著書『内外一致の
妙法 この在るべからざるもの』で、まったく別の証言をしている。


>  戸田先生は、この儀式の祝宴散会後の午後四時頃、その場その席で、理事長以下祝
> 宴に参加した全員に対して『次の会長は皆で相談して決めろ、皆で仲良くやっていけ』
> と仰言ったではないか。そしてその席に池田氏は参加していなかったし、それでも当
> 日の内には耳にしたはずではないか。池田氏の言いぶりでは、戸田先生は理事長以下、
> 理事・支部長・常任委員・婦人部長・男女青年部長の全員を騙したことになる。考え
> てもみるべきだ。学会にとっての大事が、エレベーターの中などと、こんな中で行わ
> れるものか。万人仰天の巻ではないか。
 (原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用〔孫引き〕)


 戸田城聖の死の直後は、初代会長が死去してから七年間、会長職は空位だったのだから、
当面は次の会長は指名しなくてはよいのではないか、という空気が学会内部では支配的だ
ったという。

 もし本当に、その当時学会理事だった柏原ヤス氏と、青年部参謀だった森田一哉氏との
立会いのもと、戸田城聖が池田大作を後継者として指名していたならば、第三代会長はす
んなりと決まっていたはずである。

 石田氏が主張するように、『人間革命』第十二巻に書かれているような「エレベーター
相承」など、実際にはなかったと考える方が自然だろう。

 しかしながら、この作り話は学会内で〝池田神話〟の一部として、広く信じられるよう
になり、かつて石田次男氏が後継者候補の筆頭だったことなど、ほとんど忘れ去られるま
でになった。

 池田大作は、昭和33年(1958年)当時は、創価学会の青年部参謀室長だったが、大蔵商
事の営業部長でもあり、破格の給料を得ていた。そして、その金で他の学会幹部に食事を
おごるなどして手なづけていた。
 元公明党都議・龍年光氏は著書で、当時の池田の動きを述べている。


>  池田は、先生の死期を察して、次の会長の座を睨んで動き回っていたのだ。学会の
> 最も重大な時期に先生の側を離れ、派閥作りを始める。戸田先生が常に戒めてきた、
> 学会にとって最も害のある行動である。
>  実は池田は、戸田先生のお元気な時から、青年部の主要なメンバー(北条浩、森田
> 一哉、中西治雄、星野義男等)に自分を「先生」と呼ばせていたことを、私は後で知
> って愕然とした。
 (龍年光著『池田創価学会を解散させよ』より引用)


 池田大作に、人を従わせるカリスマ性があったのは事実なのであろう。また、金貸しと
しての天分に恵まれ、金融会社・大蔵商事では随一の稼ぎ頭でもあった。人をまとめ上げ
る統率力もあった。

 しかし、どう考えても彼に宗教指導者としての資質があるとは思えない。
 戸田城聖も、日蓮正宗という宗教を金儲けのために利用したが、それでも一方では狂信
的なまでに日蓮正宗を信仰してもいた。

 戸田城聖のもとでの創価学会も、反社会的なカルトだったが、多くの新興宗教は創成期
には社会と衝突しても、次第に丸くなってトラブルは少なくなるのが普通である。

 もし仮に、石田次男氏が第三代会長になっていたならば、創価学会もそうなっていたの
ではないだろうか。

 池田大作は、宗教とビジネスを一体化させる戸田城聖のやり方を受け継ぎ、それを自分
の権勢欲を満たすために利用した。そのために創価学会を〝池田教〟に作り変えた。

 現在の創価学会では、権力を握るためなら平然とウソをつき、勝つためなら手段を選ば
ない池田大作を信者の模範とし、「永遠の師匠」と呼んで崇め奉っている。

 創価学会は、池田大作が後を継ぎ、長年にわたり支配しつづけたことにより、戸田時代
よりも悪質になってしまったのだ。

 このような邪悪なカルトを、これ以上のさらせるわけにはいかない。いま現在でも多く
の被害者が、十分すぎるほど迷惑しているのだ。

 学会員の皆さんには、創価学会が垂れ流してきたウソやデタラメに気づいてほしい。そ
して信仰を口実に他人を苦しめることを、即刻やめてもらいたいと願う。

2017年6月13日火曜日

「長男はツギオで、次男はダイサク」

 『人間革命』第五巻に昭和26年(1951年)7月11日、創価学会青年部の部隊結成式の模
様が描かれている。その時、演壇に立った戸田城聖は、その年の5月、自身が第二代会長
に就任したばかりであったにもかかわらず、次期会長について言及したという。


> 「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現われるで
> あろう。必ず、このなかにおられることを、私は信ずるのです。その方に、心からお
> 祝いを申し上げておきたいのであります」
>  戸田の言葉は、低くあり、高くあり、真情あふれんばかりの声であった。意外な言
> 葉に、青年たちは思わず体を硬直させたにちがいない。――第三代会長が、このなか
> にいるという。いったい誰のことなのであろうか。――それは、彼らの思念をはるか
> に越えた問題であった。
>  戸田は場内の中央の一隅に山本伸一班長を見かけると、ふと眼をそらした。この瞬
> 間、山本伸一は半年前のあの日のことを、咄嗟に思い出さずにはいられなかった。


 『人間革命』ではこの後、山本伸一(池田大作)が「半年前のあの日」に、戸田城聖か
ら「私にもし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また大東商工のこと
も、一切君に任せる」と言われたことを回想する場面が描かれている。

 しかし、この青年部結成式に出席していた一人である藤原行正氏は、当時の青年部員は、
『人間革命』の記述とは異なる受け止め方をしたと述べている。


>  また、この日青年部ナンバーワンの地位の第一部隊長には二十六歳の石田次男(聖
> 教新聞初代編集長、元参議院議員)が任命された。石田は学会の次期後継者と目され
> た若手屈指の人材であった。その石田を中央にした青年部に向かって、戸田会長はさ
> らに熱っぽく語りかけた。
> 「きょう集まられた諸君のなかから、かならずや次の学会会長が現われるであろう。
> かならずこのなかにおられることを私は信ずる」
 (中略)
>  その場にいた全員が、その言葉は石田第一部隊長へ向けられたものだと受け止めた。
> 池田大作もその一人だった。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 『人間革命』に、池田大作(作中では「山本伸一」)が登場するのは第二巻からである。
『人間革命』の記述では、戸田城聖は池田と初めて出会ったその日に、「いま牧口の遺業
を彼と分かつ一人の青年が、四十七歳の彼の前に、出現した」と直感したと書かれている
が、これは大ウソである。

 昭和26年(1951年)の青年部部隊結成の時点では、池田大作は第四部隊長に任命された
龍年光氏の下の一班長でしかなかった。

 藤原氏の前掲書には、昭和30年前後には戸田城聖は「長男はツギオで、次男がダイサク
だぞ」と語っていたと述べられている。
 藤原氏の著書から、当時について引用する。


>  この頃は誰もが石田を戸田二代会長の跡継ぎだと考えていた。池田自身もそうだっ
> たから、彼の石田に対するオベッカ遣いは凄かった。年に一度の子供会の席などで、
> 池田は石田に対してだけは懸命にゴマをすった。石田が腰を上げると見るや、池田は
> 素早い。パッと立って、石田の手荷物を持とうとするのである。いくら相手が次期会
> 長候補とはいえ、宗教団体の創価学会でそこまで媚びを売る人間はほかにいなかった。


 石田氏が創価学会に入信したのは、昭和25年(1950年)11月だが、その翌年には聖教新
聞の初代編集長として抜擢され、昭和28年(1953年)には、牧口門下の古参幹部と並んで
理事に就任した。戸田城聖からそれだけ買われていたのである。

 しかし、この理事就任が後に裏目に出ることになる。創価学会では、青年部が重要な役
割を担っており、石田氏が青年部から抜けた後、第一部隊長には池田大作が就任し、その
翌年には新設された参謀室長に抜擢された。池田はその後、青年部ナンバーワンとしての
地位を最大限に利用した。

 石田氏は、初代編集長として聖教新聞を基礎から作り上げたという功績があり、それな
りの人望もあったが、会長を目指そうとする野心はまったくなかった。

 戸田城聖は、教学面では抜きんでていた石田次男氏を長男に擬し、事業面での貢献が大
きかった池田大作がそれを補佐してくことを期待して次男と言ったのだろうが、天性の野
心家である池田大作は、戸田が58歳で死去したことをチャンスと見なして、策謀をめぐら
し、ついには第三代会長の地位を手に入れたのである。

 『人間革命』第十二巻には、戸田が「幸男は長男だな、伸一は次男だよ」とよく言った
が、それは「惣領の甚六」という批判的な意味合いだったと述べられている(『人間革命』
には、石田次男氏は「石川幸男」として登場する)。

 この記述は、藤原行正氏や龍年光氏が造反して、〝『人間革命』には戸田二代会長が生
きている間から、池田が後継者になることが決まっていたかのように書かれているが、そ
れはウソだ〟という批判を開始し、藤原氏が著書で、戸田会長が「長男はツギオで、次男
はダイサク」と言っていたと暴露したので、言い訳をしたものであろう。

 戸田城聖没後、石田氏を会長に推す動きもあったが、石田氏は固辞した。その後、参議
院議員を二期務めたものの、三期目の立候補は池田大作が許さなかった。その頃には池田
は〝戸田門下生の中の第一人者〟ではなく、絶対権力者としての地位を確立していたので
ある。その後の石田氏について、ジャーナリスト・溝口敦氏は以下のように描いている。


>  石田次男は戸田の死後、池田に生殺与奪の包囲網を張られ、徐々に狭められて、つ
> いには最低限の餌を投げ与えられる飼い殺し状態にされた。戸田時代、石田が戸田に
> 重用されすぎたという理由だけである。
>  池田の石田に対する敵意の深さには慄然とさせられる。別の内部文書には、「石田
> 次男は二十年間苦しんで、地獄に落ちていくんだ」との発言もあり、創価学会員にと
> っての「地獄」の持つ意味の重大さを思い合わさずとも、その長期間、なぶり殺しに
> して断末魔をみるようなまなざしの冷たさには、異常な競争心と報復心の激しさ、底
> 深さをみる思いがする。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 石田氏は、彼を敵視する池田大作の策謀により、若くして事実上の引退を強いられたわ
けである。彼はそれにめげずに、池田大作の教義上の誤りを批判し続けたが、創価学会側
は、石田氏は「気がふれて再起不能」「アル中で廃人寸前」などという噂を流して黙殺し
た。

 ジャーナリスト・内藤国夫氏が、昭和60年(1985年)に石田氏にインタビューし、その
内容を著書に記している。それによると、石田氏は池田大作の事業面での貢献は評価して
いるが、教学については酷評している。


> 「大作が戸田先生を助けたというのは、ある意味で本当だな。借金取りに追いかけら
> れちゃあ、それをなんとか追っ払い、こっちが逆に借金取り立てる時には、追っかけ
> てなんとか払わせる。それは、大作一人だけがやった仕事だよォ。たしかに大作は戸
> 田先生を助けたさ。だけど、一面で大作は戸田先生に助けられたんだ。モノもわから
> ねえチンピラが、戸田先生によって働く場所を与えられたんだもの。助けられたのに、
> そっちを忘れて、あるいはいわずに、助けたことばかりいってたんじゃ、これはサカ
> サマだァ。そこがタチが悪いんだよ。知ってて、いわねえんだもの」
> 「それに、これは金のことだけだろう。大蔵商事は金を扱う会社だから。教学のこと
> に関しちゃ、戸田先生、大作のことなんか全然信用してなかったもの。大作自身が先
> 生の講義をろくに聞いてねえんだよ。なにしろ、平気で偽の本尊を作ったりする男だ
> からな。宗教のことなんか、なあんにもわかっちゃいない」
 (内藤国夫著『創価学会池田大作のあくなき野望』より引用)


 石田次男氏は、平成4年(1992年)2月4日に死去した。池田大作はもちろんのこと、実
弟の石田幸四郎氏(当時、公明党委員長)と義弟の秋谷栄之助氏(当時、創価学会会長)
さえも、その葬儀に出席しなかったが、通夜には戸田城聖の未亡人と子息の戸田喬久氏が
出席した。

 ジャーナリスト・乙骨正生氏が戸田未亡人・幾氏に出席の理由を質問したところ、「生
前、主人が大変、お世話になりましたので」との返答があったとのことである。

 師である戸田城聖が世話になった人の葬儀に参列しないというのは、「師弟不二」とい
う創価学会の教義に照らしてどうなのだろう……。

 「歴史にIFはない」というが、もし仮に創価学会の第三代会長に就任したのが、池田
大作ではなく、石田次男氏だったならば、どうなっていただろうか。
 溝口敦氏は、石田氏を以下のように評している。


>  かりに戸田が今すこし永らえていたなら、はたの者がどのように避難しようと、石
> 田を後継者に指名しただろう。そして石田が会長になっていたなら、創価学会は華々
> しさに欠けても、いかにも宗教らしく発展しただろうし、電話盗聴や替玉投票、出版
> 妨害などを少なくともひき起こすことなく、世間の風当たりも弱まっていたにちがい
> ない。
>  が、戸田の死後、彼の重用がすぎたために、石田の庇護者はなく、また彼には池田
> の持つ粗野なまでの自己主張も野心もマキャベリズムも乏しかった。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 長年にわたる池田大作の支配により、反社会性が組織の体質になってしまった現在の創
価学会が、その体質を改めるのは容易なことではないだろう。

 また、ほとんどの学会員にとって、池田名誉会長の存在がない創価学会など、考えるこ
とさえできないことなのかもしれない。

 しかしながら、第三代会長が池田大作ではなく、今の創価学会よりは社会とうまく折り
合うことができたであろう、別の可能性も有り得たことを、ある種の〝ユートピア〟とし
て想像することは、創価学会の在り方を批判的に考察し、今後まともな組織になり得るか
を検討する上で、何がしかの意味はあるのではないだろうか。