2017年3月22日水曜日

学会幹部に良心はないのか?

 今回も財務に関する記事を投稿する。似たような話が続き、食傷気味の方もいらっしゃ
るかと思うが、創価学会について調べると、その銭ゲバぶりのひどさを物語る話が、次か
ら次へと出てくるので、もうしばしお付き合い願いたい。

 前々回、女優の杉田かおる氏の著書から、貧しい学会員に無理をしてでも財務をさせよ
うとする、創価学会の実態を目にした彼女の感想を引用した。「なけなしのお金を募金さ
せられた人が、どうして幸せだっていうの……」という杉田氏の言葉には、血の通った人
間ならば誰しも共感を感じることだろう。

 創価学会は、人間関係の密度の濃い、ムラ社会的な共同体である。当然、各地域の幹部
は、経済的に苦しい立場の学会員が少なくないことをよく知っている。

 それなのにどうして、自分の仲間であり、しかも金に困っているような人、生活苦の人
から搾取するようなむごい仕打ちができるのか、疑問に思われる方もいらっしゃるであろ
う。

 そこで今回は、学会幹部の心理や考え方に焦点を当てたいと思う。
 以前2chに「池田大作名誉会長の手腕」と題する文章を書き込んだが、その中でも述べた
元学会の顧問弁護士・山崎正友氏の述懐を再度引用する。


> 財務の集り具合を地域ごとにチェックし、良いところの幹部は優遇し、悪いところの
> 幹部はイビリ抜く。信じられない向きもあろうが、池田大作は〝金〟と〝人事〟だけ
> は、絶対に人任せにしないのだ。幹部も職員も、池田大作の眼鏡にかなわなければ昇
> 給も昇進も覚束ないことを、骨の髄まで身にしみて知らされる。それが、池田大作の
> 支配の手段なのだ。
(山崎正友著『懺悔の告発』より引用)


 池田大作による支配が、創価学会を末端信者を搾取する、過酷な組織に仕立て上げた一
因であることは否定できないだろう。その実態は、どのようなものだったのだろうか。

 創価学会では、毎年正月に、各地域の学会施設で「新年勤行会」を開催するが、その際
にも「広布基金」と称し金を集めている。

 年末の財務は一口一万円からだが、広布基金には金額の規定はない。実際には千円から
一万円の間が多いようである。

 元公明党都議・龍年光氏が、この「新年勤行会」による金集めに際し、池田大作の指揮
監督の下、競い合って働く学会幹部の姿を述懐しているので、以下に引用する。


>  しかもその際、「広布基金」と称する金が強制的に集められるようになった。前も
> って封筒が配られ、これに金を入れて持参し受付に差し出さないと、中に入れないよ
> うな仕組だ。
>  池田は、新年に集まった人数を、地区ごと、会館ごとに競争させるようになった。
> この競争に自分の地位がかかってくる幹部は必死である。「今年はこういう方法で人
> を集めよう」といったノウハウを競うようになっていった。
>  本山の「雪山坊」は、学会および公明党幹部の専用宿泊施設である。私も年始登山
> の際に何度かここに泊まったが、北条が死んだ翌年の大晦日から二日にかけて泊まっ
> た時に目にした光景には、ほとほと呆れてしまった。
>  坊の奥には池田の専用室があるが、明け方にここに各方面の最高幹部が集まり、協
> 議をする。協議が終わると、皆がバーッと出てきて、電話機に飛びつく。各地の会館
> に電話して、「何人集まった!?」と聞く。集まった人数が、即ち金の額なのだ。その
> 結果を持って、奥にいる池田に一秒でも早くと報告に走る。山崎尚見(現副会長)も
> その一人だった。
>  この競争に負ければ学会内出世レースから脱落するから、みな必死の形相だ。
>  池田は、それを集計して分析している。まるで餓鬼の集まりのような、おぞましい
> 光景ではないか。
 (龍年光著『池田創価学会を解散させよ』より引用)

 ※ 引用中の本山とは、日蓮正宗総本山大石寺のことである。ここで描かれている出来
  事の時期は、昭和57年(1982年)正月で、創価学会が日蓮正宗から破門される以前で
  ある。

 学会幹部もまた、熾烈な競争により追い立てられていることが、この記述からわかる。
なお、同様の出来事を、元公明党委員長・矢野絢也氏も『私が愛した池田大作』で述べて
いる。池田大作が健在だった頃は、こうした醜い忠誠心競争が、常態だったのだろう。

 しかし、いかに幹部同士の競争が激しいものであったとしても、それだけで、これまで
に述べてきたような、過酷な金集めで末端信者たちを苦しめるような、血も涙もない仕打
ちができるものだろうか。

 私は学会幹部が、まるで時代劇の悪代官のような悪辣な振る舞いをする、もう一つの原
因として、創価学会の教義があると思う。自分のために、他人を蹴落とすことを当然視す
る考え方が、学会にはあるのだ。


>  次に述べるのは、戸田が敗戦後間もなく全国を遊説してまわっていたとき、当時は
> 別の宗教団体に属していた女性が、戸田をかこむ座談会(学会でいうところの集会)
> に出席したときのエピソードである。
> 「その頃、属していた団体の〝先生〟は、座談会の壇上にのぼると、それまで先生の
> ほうを向いていた扇風機を聴衆に向けて、皆さんもどうぞ涼んで下さいとおっしゃる
> のです。
>  しかし、戸田先生の集会に出ると、先生は扇風機を自分のほうに向けて、『見まし
> たか。皆さんひとりひとりが、こうならなくっちゃいけないんですよ』とおっしゃる。
> そのとき思いました。これは戸田先生の勝ちだ」
(佐高信・テリー伊藤 編著『お笑い創価学会 信じる者は救われない』所収
 井田真木子著「池田大作 欲望と被虐の中で」より引用)


 上記引用中の「戸田先生」とは、いうまでもなく学会の第二代会長・戸田城聖のことで
ある。戸田は、〝自分がいい思いをするために、他人に不快な思いを強いることができる
ような地位・立場にならなくてはならない〟と説き、それに惹かれた人々が、創価学会に
入会したのである。

 この戸田の主張は、宗教の教義や思想というよりも、むき出しのエゴイズムそのものと
言った方がより適切と思える。このような身勝手な考え方を、正しい宗教の教えと信じる
学会幹部が、自分の出世のために末端会員を虐げるのは、当然の成り行きなのだ。

 ナマのエゴイズムを、そのまま肯定するこの戸田思想の、最も忠実な実践者は、池田大
作その人であろう。まったく大した〝師弟不二〟である。

 表題の「学会幹部に良心はないのか?」について、私なりの答えを述べるならば「社会
通念でいう良心とは異質な、学会流の〝良心〟ならばある。だがそれは、弱者への思いや
りだとか、優しさだとかの利他心を麻痺させ、学会組織への貢献の大きさのみを善悪の基
準とする、極めて歪で偏ったものである」といったところだろうか。

 そんなものは良心とは呼べない、と感じられる方も多いだろう。実際、創価学会員には
一見すると人当たりはいいが、裏では人を利用したり、陥れたりといった振る舞いを平気
でする人間のクズのような輩が多い。これは私の実体験から断言できる。

 創価学会は、利己主義を正当化する教義を持ち、自分のために他人を苦しめて平然とし
ていられる人格破綻者を量産する、異常なカルトである。学会員が利己的でない動機のた
めに行動すること、つまり彼らなりの利他心を発揮するのは、創価学会という組織のため
に行動する時だけではないかと思われる。

 学会員にとっては、創価学会と自分さえよければ、社会全体がどうなろうが知ったこと
ではないのだろう。このような邪教が、はたして社会にとって必要な存在だろうか。

 普通の人なら「邪悪なカルトなど不要の存在」と、答えるはずである。学会員の皆さん
にも、本当に創価学会が社会から必要とされているか、よくよく考えて頂きたい。