2017年4月30日日曜日

創価学会は仏教ではない②

 仏教の開祖である釈尊は、死後については「無記」つまり一切述べなかったとされる。
 しかし、古代のインドでは、生前の行いに応じて天界や地獄などに生まれ変わるという
輪廻転生が信じられており、仏教にもこの思想が「六道輪廻」として取り入れられた。

 仏教は、修行により悟りを開き、輪廻からの解脱をめざすものとして、受け入れられて
いったのである。後に、在俗の信者を重視する大乗仏教が発展すると、生きている間では
なく、死後に浄土に往生して修行するという考え方が生まれ、広がった。

 鎌倉時代に大衆化していった日本の伝統仏教も、大半はこうした考え方をとっている。
法華経も浄土への往生を説いており、日蓮もこの教えに基づいた信仰を説いた。

 一方、創価学会には、第二代会長・戸田城聖が提唱した「生命論」という独自の教義が
あり、「成仏」について、極めて特異な考え方がなされている。以下に『折伏経典』から、
生命論について述べられた一節を引用する。


>  成仏とは永遠の幸福を獲得するということである。われわれの生命というものは、
> この世かぎりのものでは絶対ない。永遠に生きるものである。永遠に生きるのに生ま
> れてくるたびに、草や木や犬やネコや、または、人となっては貧乏・病気・孤独・バ
> カ等の生活を繰り返すことは、考えてみてもとうてい忍びえないことである。
>  成仏の境涯をいえば、いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生まれて
> きた使命のうえに、思うがままに活動して、その所期の目的を達し、だれにもこわす
> ことのできない福運をもってくる。このような生活が、何十回、何百回、何千回、何
> 億万回と楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活
> を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、かわいそうというよりほかにな
> い。


 創価学会のいう「成仏の境涯」とは、何度も生まれてきて幸福な生活を「何千回、何億
万回と」繰り返すことなのだという。彼らのいう「幸福生活」がいかなるものかも、同書
には述べられている。


>  われわれの生命がこの世だけでないから、宗教をヤカマシクいうのであります。来
> 世に生まれてくるとき、また四畳半へ生まれてきて、汚い着物を着て、年頃になって
> も満足な福運もなく、一生貧乏で暮らしたり、病気で暮らしたりするのは嫌でありま
> す。生まれ落ちると、女中さんが三十人もついて、婆やが五人もいて、年頃になれば、
> 優秀なる大学の卒業生として、お嫁さんは向こうから飛びついてきて、良い子供を生
> んで立派な暮らしをして、死んでいかなければなりません。その来世の幸福を願うが
> ゆえに、いま信仰するのであります。今生もよくなければ来世がいいという証拠には
> なりません。今生において幸せになるがゆえに、来世のことも仏の仰せどおり、確信
> できるのであります。安心して信心を続ければ、今生において必ず証拠が出るのであ
> ります。


 創価学会が提示する「幸福な生活」のイメージは、「生まれ落ちると、女中さんが三十
人もついて、婆やが五人もいて、年頃になれば、優秀なる大学の卒業生として、お嫁さん
は向こうから飛びついてきて、良い子供を生んで立派な暮らしを」するという、極めて即
物的なものである。

 経済的な豊かさを求めることが悪いとは言わないが、何度も輪廻して、その度に煩悩を
充足させる生活を繰り返すことが、「成仏の境涯」だという主張には、強烈な違和感を禁
じえない。

 釈尊は、王族に生まれながら、恵まれた生活をなげうって出家し、修行して悟りを開き
仏となった。創価学会のいう「成仏の境涯」は、仏教の目指す悟りの境地とは、まったく
似ても似つかないものである。

 多くの伝統宗派では、現世で煩悩を断って悟ることは難しいので、浄土に往生すること
により、来世で成仏するという信仰がなされる。ここでは、その代表的な考え方を示すも
のとして、日蓮の同時代人であり、日蓮が口を極めて批判した法然の弟子でもある、親鸞
の『歎異抄』を引く。


>  煩悩具足の身をもて、すでにさとりを開くといふこと。この条、もてのほかのこと
> にさふらふ。 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法
> 華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな、難行上根のつとめ、観念成就のさ
> とりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。これまた易
> 行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生にをいては煩悩・悪障を断ぜんこ
> と、極めてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをい
> のる。


 親鸞は、「真言法華を行ずる浄侶」なおもって、来世での悟りを祈るのだから、「煩悩
具足の身」ならば、なおさらのことだと主張している。

 では「法華経の行者」をもって自任していた日蓮はどうだったのだろうか。以下に日蓮
遺文から、日蓮が自分の死後について、端的に述べている箇所を示す。


>  さて最後には日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・
> 正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候ひけれと、さしきりて教主釈尊に申し上げ候はん
> ずるぞ。
(『種種御振舞御書』より引用)

 ※ この遺文は、日蓮が斬首されそうになった、竜の口の法難について述べている。引
  用した一節は、刑場(竜の口)に連行される日蓮が、八幡宮の前で叫んだ言葉である。
   日蓮はこの後「月のごとくひかりたる物」が現われ、「太刀取目くらみたふれ臥し」
  たと述べている。そのため、斬首は沙汰止みになったという。
   実際にそのような奇蹟があったかは定かではないが……。


 日蓮は、自分が死ねば、久遠実成の釈尊を教主とする霊山浄土に往生するのだと信じて
いたのである。なお、以前も述べたが、法華経は阿弥陀如来の浄土への往生を説いており、
日蓮は、極楽往生を願うのならば、「南無阿弥陀仏」と唱えるよりも「南無妙法蓮華経」
と唱えた方がよいと主張していた。

 日蓮と法然・親鸞の浄土への往生の考え方には、題目と念仏、霊山浄土と極楽浄土とい
う違いがある。だが日蓮の思想は、創価学会の生命論と比べれば、法然・親鸞の方にずっ
と近い。

 生身の人間である以上、誰しも物質的な欲望は断ちがたい。また、現在のような科学技
術や医療がない時代に、現世利益を願う信仰が求められたのは、やむを得ないことだった
と思う。

 しかし、創価学会のように、即物的なご利益がすべてで、成仏さえも欲望の充足と直結
させるのは、仏教とはあまりにも異質であり、異端的である。もっとはっきり言えば、下
品下劣である。

 『折伏経典』には、人として生まれて「バカ等の生活を繰り返すことは、考えてみても
とうてい忍びえないことである」と述べられているが、バカな教えを説き、その教えを有
難がっているバカな信者がいる宗教は、いったいどこなのか。

 仏教とは、「自ら其の意を浄む」ものであり、日蓮も説いているように「心の財第一」
とするものである。

 また、死してなお存続しつづけるような、不変の〝我〟にとらわれることを否定し、欲
望=煩悩のままに行動することを戒めるものでもある。

 創価学会は欲望を無批判に肯定し、しかも何度も転生して、その度に煩悩まみれの「幸
福生活」をすることが「成仏の境涯」などと説いているが、そんなたわけたことは、釈尊
も日蓮も言っていない。

 戸田城聖や池田大作が説く、仏教とはなんの関係もない邪義を「唯一の正統な仏法」な
どと主張する創価学会こそが、仏法や日蓮を貶める集団であることは明白である。



補足1 『人間革命』における「生命論」

 『人間革命』第四巻でも、「生命論」について詳細な解説がなされているが、『人間革
命』では「生命論」そのものだけでなく、その宣揚にもかなりの紙幅が割かれている。

 それによると、戸田城聖の「生命論」は、デカルトの『方法序説』に比肩する意義を持
つものであり、今後数百年にわたり影響力を及ぼすであろう、と述べられている。また、
「生命論」がいずれ科学的に証明されるだろう、との予測もされている。当該部分を引用
する。


>  今後、二十一世紀にむかって、生命に関するいろいろな実験が重ねられ、煩わしい
> くらいの論議が湧きおこり、さまざまな仮説も横行することであろう。そして、戸田
> の論文のある部分を科学的に実証するにいたることも、おそらくはあるであろう。彼
> の「生命論」が、真の光彩を放ちはじめるのは、その時であると確信したい。


 本稿をお読みいただければわかるとおり、「生命論」の内実は、古代インド以来の輪廻
思想と大差ないものであり、あえて新味を挙げるとすれば、煩悩まみれの「幸福生活」と
やらを「成仏の境涯」と強弁することで、仏教を貶めたことくらいである。

 また、『人間革命』第四巻の初版は昭和43年(1968年)であるが、それから半世紀近く
が経った現在でも、「生命論」の科学的実証などなされていない。戸田の「生命論」が、
「真の光彩」とやらを放つ時は、一体いつになったらくるのであろうか。私には、未来永
劫そんな日はこないとしか思えないのだが……。

 輪廻転生の科学的証明などなされるはずがないが、この思想が発生した古代インドにお
いては、社会規範に根拠を与え、秩序を正当化するイデオロギーとして、一定の役割を果
たしたことは事実であろうし、その時点での社会的要請に応えているという意味では、そ
れなりの妥当性があったと評価できる。

 しかし、20世紀半ばにもなって、古代人と大差ない主張をした戸田城聖にしても、その
戸田の珍説を『方法序説』と比肩する歴史的偉業などと宣揚した池田大作にしても、愚劣
極まりないとしか言いようがない。

 「生命論」なる珍教義は、時代錯誤で非科学的なたわ言に過ぎず、創価学会の知的水準
の低さを証明するものでしかない。


補足2 『種種御振舞御書』について

 今回引用した『種種御振舞御書』も、かつて身延山久遠寺に保管されていたが、明治の
大火で焼失した真蹟曽存である。

2017年4月28日金曜日

創価学会は仏教ではない①

 信教の自由を侵害する強引な勧誘や、脱会者・批判者への陰湿な嫌がらせなど、組織ぐ
るみで人権侵害を行う創価学会が、まともな宗教であるはずがないことは、今さら論ずる
までもない。

 しかしながら連中は、「大乗仏教の真髄である日蓮大聖人の仏法を信奉する団体」を自
称して、仏教とは名ばかりの反社会思想を広め続けている。創価学会の口先だけはご立派
な、デタラメ教義に騙されてしまう人も、残念ながら一部に存在する。
 そこで今回は、創価学会が仏教からいかにかけ離れた存在かを論じたい。

 創価学会を代表する出版物、『人間革命』には、読んでいて〝これを書いた奴も信じて
る奴らも頭がおかしいんじゃないのか〟と思わずにいられない箇所が少なくない。そのよ
うな一節を、第五巻から引用する。


> がっちり信仰して、五欲を欲しいままにし、功徳をうけてください。願いとして叶わ
> ざるなし、いかなる願いも、叶うのであります

 ※ この一節は、昭和27年(1952年)3月1日の中野支部総会における戸田城聖の講演。


 引用中にある「五欲」とは、仏教用語で「色・声・香・味・触」の五つの感覚に対応す
る欲望、つまり煩悩のことを言う。「財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲」のことをいう
場合もある。

 戸田城聖は〝信仰すればいかなる願いも叶うのだから、欲望をほしいままにせよ〟と説
いているわけだが、これが仏法の指導者のいうことか、と感じるのは、私だけではないだ
ろう。仏教といえば、煩悩を断つことを目指すものというのが、一般的理解である。

 創価学会が、その社会通念に反する極端な欲望肯定思想を、正当化するために用いてい
る日蓮遺文があるので、以下に引用する。


> 欲をもはなれずして仏になり候ひける道の候ひけるぞ。普賢経に法華経の肝心を説き
> て候「煩悩を断ぜず五欲を離れず」等云云。天台大師の摩訶止観に云く「煩悩即菩提、
> 生死即涅槃」等云云。
 (『四条金吾殿御返事』より引用)


 確かにこの遺文には、「煩悩を断ぜず五欲を離れず」という文言が含まれている。また、
『摩訶止観』からの引用として「煩悩即菩提」という言葉もある。

 しかし、日蓮が「五欲を欲しいままにし」てよいと言っているとも断定できない。この
遺文の真意を詳らかにするため、文証として用いられている『摩訶止観』の一節を以下に
示す(後で大意を説明するので読み飛ばしても可)。


>  理を推して発心すとは、法性は自・天にして然なり。集も染むること能わず、苦も
> 悩ますこと能わず、道も通ずること能わず、滅も浄ること能わざること、雲が月を篭
> むるも妨害すること能わざるがごとし。煩悩を退けおわってすなわち法性を見るなり。
> 経にいわく、「滅は真諦にあらず、滅によって真に会す」と。滅なお真にあらず、三
> 諦はいずくんぞ是ならん。煩悩のなかに菩提なく、菩提のなかに煩悩なし、これを生
> 滅の四諦を推して上は仏道を求め下は衆生を化するの発菩提心と名づく。
>  無生の四諦を推して発心すとは、法性は苦・集に異ならず、ただ、苦・集に迷って
> 法性を失うこと、水は結んで氷となるも別の氷なきがごとし。苦・集に苦・集なしと
> 達すれば、すなわち法性に会す。苦・集なお是なり、いかにいわんや道・滅をや。経
> にいわく、「煩悩即ちこれ菩提なり、菩提即ちこれ煩悩なり」と。これを無生の四諦
> を推して上求下化する発菩提心と名づく。
 (『岩波文庫『摩訶止観(上)』より引用)

 ※ この一節は仏教の重要教義である四諦に基づいている。四諦とは、苦諦(一切は苦
  である)、集諦(苦の原因は煩悩である)、滅諦(煩悩を除けば苦も無くなる)、道
  諦(煩悩を除くための修行法(八正道))をいう。


 この一節を正確に理解するには、仏教についてそれなりの知識が必要だが、ここでは大
意を述べるにとどめる。

 仏教には、一切は真如法性の顕現であるという考え方がある。上記は、悟りを開くには
煩悩を断つことが必要だが、悟りを開いた立場から見れば、煩悩もまた、水が氷になるよ
うに、法性の現れたものとわかると説いているのである。

 それを端的に「煩悩即菩提」と述べているのであり、煩悩のおもむくまま、好き放題す
ることが悟りの境地と言っているわけではない。

 そもそも『摩訶止観』には「五欲を呵せ」と題した一節があり、そこには「この五欲は、
これを得れども厭くことなく、悪心うたた熾んにして火に薪を益すがごとく、世世に害を
なすこと怨賊より劇し」と、五欲は有害なものとして述べられている。

 先の日蓮遺文も、凡夫である以上、欲から離れられないのは当然のことだが、だからと
いって成仏をあきらめる必要はないと言いたいのであり、それを欲望のままに好き放題し
てもいいと解釈するのは無茶苦茶である。

 長々と述べたが、仏教の知識などなくても常識さえあれば、欲望を無制限に肯定するよ
うな宗教は邪教に他ならないことはすぐにわかる。

 日蓮正宗も、創価学会がこういうバカなことを言いだした時点で、破門にするべきだっ
たのではないか。

 このような狂った教えを信奉しているから、自分の欲望を充たすために、他人を平気で
犠牲にできる人間のクズのような輩がわいてくるのである。

 重ねて言うが、創価学会は断じて仏教ではない。有害な思想をまき散らすインチキ宗教、
カルト邪教に過ぎない。この「一凶を禁ずる」理性を、ひとりひとりの国民が持つことこ
そ、よりよき社会の実現のために、今必要なことではないだろうか。


補足

 今回引用した遺文も、日蓮が弟子である四条金吾に送った手紙とされている。『四条金
吾殿御返事』と呼ばれる遺文は他にもあり、引用したものには『所領書』という異称もあ
る。

 実はこの遺文には、日蓮真蹟・古写本ともに現存しない。なので確実に日蓮の思想を伝
えるものとは断定できない。

2017年4月26日水曜日

蔵の財、心の財

 創価学会の教義がまとめられている『折伏経典』に、信仰の目的を論じた箇所がある。
その一節は、信仰を心のよりどころとすることを、以下のように批判している。


>  なるほど信仰というものが心の満足を目的としているものであるならば、野球をや
> って心の満足を得、心の慰安のために囲碁をやり、華道・茶道によって精神的な満足
> をうることとなんら変わりないものとなってしまう。信仰を、たんに趣味、娯楽とし
> か考えないところに間違った宗教が横行し、無知な者を惑わし、社会に対して害毒を
> 流す一つの原因がある。


 信仰に精神性を求めることは、スポーツによる充足や趣味を楽しむことと同列であり、
社会に対して害毒を流す原因となるのだという。随分と一方的で、心というものをないが
しろにした物言いである。

 創価学会においては、心の問題などとるに足らないものと考えられていることが、よく
わかる。では、彼らが信仰に求めるものは何なのだろうか。同書はこう述べている。


>  世の中が、すべて宿命であり、運命であるならば、よくなろうとして努力する人が
> いなくなるのではないか。この宿命を見つめ運命を打開していくことこそ信仰の目的
> であり、不幸な生活を幸福な生活へと転換していくための実践方法がすなわち宗教で
> ある。このことがわかれば、宗教はたんに精神的な満足を得るという趣味・娯楽とは
> 比較にならない重大問題であることがわかるのである。


〝幸福になるための実践方法が宗教〟だというが、精神的な充足を信仰にもとめることを
否定している以上、創価学会のいう〝幸福〟は、物質的な充足のみを指していることは明
らかである。

 即物的な現世利益のみを追求し、崇高さ、敬虔さといった精神的価値を認めない考え方
こそが、「無知な者を惑わし、社会に対して害毒を流す」ものではないのか。現に創価学
会員といえば、常識や規律を軽視し、他者への思いやりに欠けた人間ばかりではないか。

 彼らが「大聖人」と呼ぶ日蓮は、このような教えなど説いてなどいない。日蓮が心とい
うものを、どのように考えていたかを示す遺文を以下に引用する。


>  蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらん
> よりは心の財をつませ給うべし。
 (『崇峻天皇御書』より引用)

 ※ 引用中の「財」は「たから」と読む。


 この遺文からは、日蓮が物質的な事柄よりも、「心の財第一」と考えていたことが窺え
る。創価学会が日蓮の名を騙っているだけで、実際には、その教えを尊重していないとい
う証拠である。

 それに、創価学会の信仰から、物質的な充足を得ているのは、信者から巻き上げた金か
ら高額の所得を得ている、一部の幹部だけではないのか。

 末端の学会員には、地域の学会幹部から紹介された、低賃金の職場で働かざるを得ない
者や、公明党議員の斡旋で生活保護を受給して「功徳をいただいた」などと言っているよ
うな、どうしようもない連中も少なくない。

 創価学会のようなインチキ宗教にご利益を願うくらいなら、自分自身の意思で未来を切
り開く生き方を選んだ方が、余程マシであろう。それに生きづらさを感じる人にとって、
宗教が心のよりどころとなるのならば、それがまっとうな宗教であればだが、信仰を持つ
ことも悪くないかもしれない。

 しかし、創価学会はそんな心の支えにはならない。その理由は上記をお読みいただけれ
ば明白だろう。どうしても宗教にすがりたい人も、社会には一定数いるだろうが、そのよ
うな方には、創価学会だけはやめておくべきだと、強く言いたい。


 話は変わるが、上記の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」と
いう文言は、実は現在の創価学会では、しばしば幹部が言及する言葉となっている。

 これは別に、彼らが即物的な現世利益のみを追求する教義を改めたからではない。では、
なぜだろうか。

 創価学会が毎年、「財務」と称する金集めを行っていることは、これまでに当ブログで
述べたとおりである。

 財務の際には、「財務をすると倍になって福をもたらす」「高額の財務であればあるほ
ど功徳が大きい」と幹部が煽りたて、他の会員への見栄もあって、無理をしてでも金を捻
出し、高額財務を行う学会員も少なくない。

 しかし、学会に金を貢いだからといって、それが倍になって返ってくるなどという虫の
いいことがあるわけもなく、中には地区の幹部に不平を言う者もいる。

 そんな時に幹部が言うのが、「蔵の財よりも身の財、身の財より心の財」という日蓮の
言葉である(「愚痴は福運を消す」ということもある)。

 学会員は上から下まで、現世利益に目のくらんだ連中であり、当然のことながら、くだ
んの幹部も、常日頃は「心の財」になど、何の興味も持っていない。財務についての苦情
をかわす時にだけ、にわかに「心の財」が大事になるらしい。

 まったく、ふざけ切ったインチキ宗教である。



補足

 今回引用した『崇峻天皇御書』は、日蓮が在家の弟子である、四条金吾に宛てて出した
手紙である。崇峻天皇にまつわる逸話が紹介されていることからこう呼ばれる。

 この遺文は身延山久遠寺に伝わっていたが、明治時代に焼失している。日蓮が晩年を過
ごした身延には、複数の真蹟遺文が残っていたが、明治八年の大火で焼失した。このよう
な遺文は「真蹟曽存」と呼ばれる。

2017年4月24日月曜日

仏像を拝むのは謗法か?

 ※ 今回は法華経(漢文)、日蓮遺文(古文)からの引用多め。

 創価学会による強引な勧誘(彼らの言葉でいえば「折伏」)に遭い、難渋している人、
迷惑している人は多い。そこで今回は、折伏の被害者の一助になることを期して、創価学
会の教義の矛盾のうち、もっとも明白なものを取り上げる。

 創価学会は、彼らが工業的に量産しているビニールシート製の本尊を、唯一の正しい信
仰の対象であると主張し、日蓮宗を含めた伝統宗派で信仰の対象とされる仏像等を拝むこ
とは謗法(ほうぼう)だとしている。

 しかし、この主張は、日蓮の教えや、彼らが朝夕に勤行している法華経方便品の内容と、
明白に矛盾している。

 妙法蓮華経 方便品第二 には、以下の記述がある。


> 若人為仏故 (若し人、仏のための故に)
> 建立諸形像 (諸の形像を建立し)
> 刻彫成衆相 (刻彫して衆相を成せば)
> 皆已成仏道 (皆已に仏道を成じたり)
 (中略)
> 綵画作仏像 (綵画して仏像の)
> 百福荘厳相 (百福荘厳の相を作るに)
> 自作若使人 (自ら作り、若しくは人をもせしめば)
> 皆已成仏道 (皆、已に仏道を成じたり)
 (中略)
> 或有人礼拜 (或は人ありて礼拝し)
> 或復但合掌 (或はまた但、合掌のみし)
> 乃至挙一手 (乃至、一手を挙げ)
> 或復小低頭 (或はまた小く頭を低れて)
> 以此供養像 (これを以て像に供養せば)
 (中略)
> 入無余涅槃 (無余涅槃に入ること)
> 如薪尽火滅 (薪の尽きて火の滅するが如し)
 (岩波文庫『法華経(上)』より引用)


 要するに、仏像を作って拝めば、仏道を成じ涅槃に至ることができると、法華経には説
かれている。

 次に、日蓮が信仰の対象として、何が適当と考えていたかを、日蓮遺文からの引用によ
り示す。


> 其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟
> 尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座
> に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十
> 方の諸仏は大地の上に処したまふ。
 (中略)
> 此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏
> 像出現せしむべきか。
 (『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』より引用)


>  問うて云はく、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答ふ、有り。求めて云はく、
> 何物ぞや。答へて云はく、三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、
> 馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云はく、其の形
> 貌如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とす
> べし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。
 (『報恩抄』より引用)


 「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」との記述からも明らかなように、
日蓮は、末法においては、上行等の四菩薩を脇士とする「本門の教主釈尊を本尊」とす
べきと主張している。

 仏像や釈尊を信仰の対象とすることを否定する創価学会は、法華経や日蓮の教えを誹
謗する謗法団体であることは明白である。日蓮は、このような謗法者の末路について、
以下のように述べている。


>  法華経第二に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して
> 阿鼻獄に入らん」と。又同第七巻不軽品に云はく「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受
> く」と。
 (『立正安国論』より引用)



補足

 今回引用した日蓮遺文は、いずれも日蓮系の教団において、教義上重要とされている
ものである。創価学会も例外ではない。

 『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』『立正安国論』は、中山法華経寺に真蹟が現存し
ている。『報恩抄』については、池上本門寺等に真蹟断片が伝わっている。

 仏像を信仰の対象とすることを肯定した日蓮遺文は、今回引用したものだけではない。
ほとんどの創価学会員は、日蓮遺文などほとんど読んでいないし、読む学力もないので、
このような明白な矛盾にも気づかないのであろう。

2017年4月22日土曜日

私説〝五重相対〟(創価学会の矛盾)④

 ※ 承前 私説〝五重相対〟

5、創価学会と釈尊の相対

  伝統宗派各派はもとより、創価学会のような胡乱な新興宗教までもが依拠する法華経
 をはじめとする大乗経典は、実際には釈尊滅後、だいぶ後になって成立したものである
 ことは、当ブログでもこれまでに何回も述べたし、私が述べるまでもなく、仏教に多少
 なりとも関心のある方にとっては、もはや常識といってもよいことであろう。

  しかし、だからといって日本の伝統仏教を含めた大乗仏教が、釈尊の教えとまったく
 無関係という訳ではない。江戸時代に大乗非仏説を主張した富永仲基が、「迦文(釈尊)
 の文」と呼び、現在の仏教学においても、実際に釈尊が説いた可能性があると考えられ
 ている偈文があるので、以下に引用する。


   七仏通誡偈

  諸悪莫作 (諸悪作す莫し)
  衆善奉行 (衆善奉行す)
  自浄其意 (自ら其の意を浄む)
  是諸仏教 (是れ諸仏の教え)

 
  この七仏通誡偈の出典は『法句経』であるが、他の経典にも引用され、古来より仏教
 の大切な教えとされてきた。特に禅宗で重視され、一休宗純の「諸悪莫作 衆善奉行」
 の書は有名である。

  〝悪をなさず、善をなせ〟という教えは、誰も反対するものなどいない普遍的なもの
 であるはずだが、これに真っ向から反することを行っている、自称仏教団体が存在する。
 言わずもがなのことだが、創価学会がそれである。

  創価学会には、脱会者や勧誘に応じない者、彼らの非常識な振る舞いを批判した者な
 どに対して、組織的に陰湿で巧妙な嫌がらせを行う、広宣部・教宣部というセクション
 があることは、以前述べた通りである。

  また、彼らは折伏と称し、信教の自由を侵害する強引な勧誘を行い、選挙に際しては、
 替え玉投票や投票所襲撃事件など、悪質な違反を何度も行ってきた。過去には、選挙違
 反で逮捕された学会員に対して「法難賞」なるものまで授与していた。

  創価学会が、社会規範から逸脱した「悪」を実践する団体であることは明白である。
 私の個人的な経験からいっても、創価学会員には悪人が多い。

  他人の迷惑を顧みない強引な勧誘を行う学会員は何人も見てきたし、思い通りに勧誘
 に応じない相手を卑怯なウソで陥れ、そのウソがバレると「俺は誤解していただけだ。
 そもそもアイツが創価学会に入りさえすれば、そんな誤解はすぐに解けたはずだから、
 創価学会に入らない方が悪い」と開き直る者までいた。

  創価学会員のこのような邪悪な振る舞いは、「諸悪莫作」という、仏の教えに反して
 いることは明らかであり、創価学会こそが反仏法団体であることも明白である。

  学会員が〝自分さえ良ければよい。創価学会以外の社会全体のことなど考える必要な
 どない〟という態度をとるのは、どういう訳だろうか。そもそも仏教は〝無我〟を説く
 宗教である。それなのに学会員には、我執が強い人間が異様に多い。

  このことの背景として、創価学会の非仏教的な教えがあると思う。その典型例として、
 『人間革命』第三巻から、昭和23年(1948年)元旦における戸田城聖の指導を引用する。


>  なごやかな雰囲気のなかに、弟子たちは戸田の話に真剣に耳を傾けている。彼の話
> は、つねに道理のうえから、科学的に、真の仏法を理解させようとするものであった。
> 「地球が、宇宙の惑星の一つなら、われわれ人間も、おなじだ。宇宙のなかで、人間
> という一つのものだ。人間の活動といったところで、宇宙のリズムある法則から免れ
> ることは絶対にできない。このことを度外視して、いくら努力してもはじまらない。
> ある場合は、一生懸命逆行している時もある。こうした微妙な一種の不調和が、生活
> に現われる時、人間は不幸を観ずるわけだ。このような法則を、生命という分野から、
> 根本的に事実として説かれているのが、大聖人の仏法です。
>  だから、これがわかってしまえば、我即宇宙であり、宇宙即我ということになる。
> いつか、どこかの科学者が、人間は一個の小宇宙なり、と言ったことをおぼえている。
> ……しかも、これは観念の世界にあるのではない、真実のこの世界にあるというので
> す。(以下略)


  上記引用で、戸田城聖は仏法というものを、あたかも物理法則か何かのように論じて
 いるが、これは果たして妥当だろうか。それに「我即宇宙であり、宇宙即我ということ
 になる」とあるが、このような〝我〟というものを否定し、〝無我〟を説いたのが本来
 の仏教ではなかっただろうか。

  比較的初期に成立した経典である『法句経』のパーリ語原典からの翻訳が、岩波文庫
 に収録されているので、関連部分を引用する。


>  「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかなる知慧を持って観
> るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
 (中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』より引用)

  ※ 引用中では「諸法非我」とされているが、一般的な漢訳は「諸法無我」。


  上記を読めば一目瞭然だが、釈尊の教えと『人間革命』が説く内容とは、まったく逆
 である(『人間革命』には、もっと直截に我欲を肯定している箇所もあるが、それにつ
 いての批判は別の機会に譲る)。

  我執を捨て〝無我〟の境地に至ることを目指す仏教とは正反対に、創価学会は我利我
 欲を無批判に肯定し、そればかりではなく道徳や常識といった社会規範を「世法」と呼
 び、軽視するが、それの一体どこが仏法だというのだろうか。

  日蓮も『一代聖教大意』で「外道は一切衆生に我有りと云ひ、仏は無我と説きたまふ」
 と述べている。創価学会の〝我〟を肯定する教えは、釈尊の教え、日蓮の教え、双方に
 違背するものであり、彼らの教義でもある内外相対(私説〝五重相対〟①補足参照)に
 より、破折されるべきものではないのだろうか。

  このことは、創成期からの学会幹部で公明党参議院議員を務めた石田次男氏や、脱会
 して批判者に転じた元副会長の福島源次郎氏も指摘している。

  これまで論じてきたように、創価学会の教義は支離滅裂であり、彼ら自身が過去に主
 張してきたこと、日蓮が説いたこと、法華経に説かれていること、釈尊が説いた仏教徒
 を名乗る者ならば誰であれ重視すべきこと、そのすべてと矛盾している。

  これほどまでに矛盾に満ちているにも関わらず、まったく何も疑問を感じず、「創価
 学会は唯一の正しい宗教」と信じ込んでいるのが創価学会員である。頭がおかしいとし
 か思えない。

  どれほどバカげた教えだろうが、他人に迷惑をかけずに信仰するのならば、とやかく
 論難する必要などないだろうが、連中は社会に迷惑をかけまくっており、看過できない。
 このような狂ったカルトの存在は有害無益であり、今後とも徹底した批判を加えていき
 たいと考えている。


補足

  『一代聖教大意』の日蓮真蹟は現存していないが、孫弟子にあたる日目による古写本
 が現存している(孫弟子とはいっても、日目は日蓮と直接の面識もあった)。

2017年4月20日木曜日

私説〝五重相対〟(創価学会の矛盾)③

 ※ 承前 私説〝五重相対〟

4、創価学会と法華経〔サンスクリット原典〕の相対(天台大師の矛盾)

  天台大師智顗は、六世紀の中国の僧で、天台宗の実質的な開祖である。天台宗は、最
 澄によって日本にも伝えられた。日蓮を含めて鎌倉仏教の祖師は皆、日本天台宗の総本
 山比叡山延暦寺で学んだことから、天台大師の教説から少なからず影響を受けている。

  創価学会の教義も、この天台大師の思想を抜きに語ることはできない。今回はその代
 表的なものである「五時八教の教判」と「一念三千」について論じる。

  「五時八教の教判」の教判とは、仏教経典の優劣を論じた教義である。仏教経典は、
 実際には、釈尊滅後、数百年かけて徐々に成立したものだが、仏教が伝来した当初は、
 釈尊が一代で説いたものと信じられていた。

  何世代もかけ、多くの人の手で創作されてきたものなので、経典に説かれている思想
 は様々であり、中には矛盾しているものもあった。それを釈尊一人が一代で説いたと考
 えたことから、当然に混乱が生じた。

  天台大師は、この混乱を収拾する解釈を考え出した。釈尊が悟りを開いてから入滅す
 るまでを五段階に分け、それぞれの段階で、レベルの異なる教えを説いたと考えたので
 ある。それが「五時八教の教判」である。その内容を整理すると以下のようになる。


  華厳時・・・・・・釈尊が悟りを開いた直後、その境地をそのまま説いた教え。華厳
           経がこれにあたる。しかし、内容が高度だったので、多くの人に
           は理解されなかったと考えられた。

  阿含時・・・・・・理解を促すためにわかりやく説かれた教え。上座部仏教(小乗仏
           教)の経典が該当する。

  方等時・・・・・・ほとんどの大乗経典は、この時期に説かれたと考えられた。

  般若時・・・・・・深遠な〝空〟の教えを説いた時期。般若経がこれにあたる。

  法華・涅槃時・・・最も優れた教えである法華経を説いた時期。法華経による救いか
           ら漏れた人々のために、釈尊の死の間際に涅槃経が説かれた。


  法華経が最も優れた教えとされた根拠は、法華経の直前に説かれたと考えられた無量
 義経に、「四十余年未顕真実」という文言があること、つまり〝悟りを開いてから四十
 年余りの間、真実を顕わしていない〟と釈尊が宣言していることである。

  そして、法華経に「正直捨方便 但説無上道(正直に方便を捨てて 但無上道のみを
 説く)」とあることなどである。

  この「五時八教の教判」には、それなりに説得力があったことから、後世に至るまで、
 大きな権威を持ち続けた。日蓮もこの説に従って、法華経以外の経典を重視する宗派を
 非難した。

  だが、「五時八教の教判」にも弱点があった。それを天台教学は、法華経の片言隻句
 を拡大解釈し、他の経典に説かれている思想を投影することで弥縫したのだが、それを
 これから見ていく。

  大乗仏教では、一切は〝空〟であると考える。法華経にも「於空法得証(空法におい
 て証ることを得たり)」といった記述はある。だが、肝心の〝空〟を証(さと)る方法
 について、法華経にはほとんど説かれてない。
 〝空〟については、ごく短い経典である般若心経の方が、法華経よりもよほど詳しい。

  また法華経には、〝誰もが仏になれる〟と説かれているが、その根拠は述べられてい
 ない。「一切衆生悉有仏性」という言葉をご存知の方も多いであろうが、この言葉の出
 典は涅槃経である。

  「すべての人が仏としての性質、つまり仏性を宿している。だから、誰もが仏になれ
 る」という思想を「如来蔵思想」といい、日本の伝統仏教や、創価学会を含めた仏教系
 新宗教は、ほとんどすべてこの思想の影響下にあるといっても過言ではない。

  一番優れているはずの法華経に、大乗仏教の重要思想である〝空〟や、如来蔵思想が
 説かれていないのは都合が悪い。この欠点を取り繕う役割を担ってきた教義がある。

  それこそが「一念三千」である。この教義について順に説明していくが、わかりにく
 い考え方なので、私のつたない説明では、すぐにはご理解いただけないかもしれないが、
 ご容赦いただきたい。

  天台思想でも〝空〟は重視されており、三諦という教義がある。これは「空・仮・中」
 の三位一体とも言うべき思想で、それぞれ次のような考え方である。

  空・・・一切は移ろいゆくものであり、不変の本質など存在しない。

  仮・・・事物は仮にその姿を見せている。

  中・・・「空」と「仮」を統合した、より高い見方。

  「空・仮・中」は、切り離すことができない一体のものであることを「三諦円融」と
 いい、「三諦円融」を心に観ずる修行を「一心三観」という。

  何が何だか訳がわからないという方も多いことと思う。実は私もよくわからない。
  そこで、本稿の執筆に際して大いに参照した、仏教学者・立川武蔵氏の著書から引用
 させていただく。


> 天台教学では縁起せるものに対して、(a)「空」と観じて「仮」と観じ、また(b)
> 「仮」と観じて「空」と観ずるという方向の異なる二つの観想行為のレヴェルを設定
> する。そして(a)と(b)とが二つの異なるあり方ではなく、「中」においては統
> 一されていると主張される。しかし、その統一がはたして論理としてとらえられるも
> のであるか否かは今後の研究課題なのである。
 (立川武蔵著『最澄と空海』より引用)


  仏教学者が「今後の研究課題」というくらいなのだから、素人に理解できないのは当
 然だろう。理解の助けにはならなかったかもしれないが、わからないのが当然と諒解す
 るしかないのかもしれない。所詮、悟りとは論理を超越したものなのだろう。

  脱線してしまったが、この「空・仮・中」は古代インドの仏教思想家・龍樹が、『中
 観』で述べた説によるもので、直接、仏教の経典に説かれている教えではない。経典に
 根拠がないのでは、教義としての正統性に疑問を持たれかねない。

  そこで登場するのが、法華経と天台大師である。
  法華経方便品に「十如是」という一節がある。「如是相。如是性。如是體。如是力。
 如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」と、如是~が続けて十あ
 るので十如是という(意味は後で解説するので、ここではそんなものがあるということ
 を、とりあえず知っていただいて先に進む)。

  天台大師は、この十如是には三通りの読み方があると主張した。最初の「如是相」に
 ついてだけ記すと、「是相如、如是相、相如是」と読めるのだという。

  しかも、それぞれが実は先ほどの「空・仮・中」と対応しているのだという。驚くべ
 き論理の飛躍だが、これで〝空〟の思想が「最高の経典」である法華経にも説かれてい
 るということになったわけである(かなり無理がある気がするが……)。

  さらに話は進む。天台大師の代表的な著述である『摩訶止観』には、「十如是」と仏
 教の伝統的な世界観を関連づけた記述がある。


>  それ一心に十法界を具す。一法界に十法界を具して、百法界なり。一界に三十種の
> 世間を具し、百法界はすなわち三千種の世間を具し、この三千は一念の心にあり。
 (岩波文庫『摩訶止観(上)』より引用)


  十法界とは、迷える衆生が輪廻する世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)と、迷
 いから脱した四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)の合わせて十の境涯を指す。この十界は、
 それぞれがお互いの要素を併せ持つので百界となる。これを「十界互具」という。

   ※ 「十界互具」には重要な含意がある。それは迷える衆生の世界も、「仏界」の
    要素を含むこと、つまり「一切衆生悉有仏性」と同様の意味になることである。

  三十種の世間とは、「三種世間」が「十如是」を備えていることをいう。「三種世間」
 についての解説を、立川武蔵氏の前掲書から引用する。


>  第一の世間は、五陰世間である。「五陰」とは五蘊(物質、感受、原初的観念、意
> 欲等、認識)と同じであり、初期仏教以来、「世界」の構成要素と考えられてきた。
  (中略)
> 天台の教学においては、五陰は山川草木などの自然をも含んだ、世界の基礎的構成要
> 素と考えられた。この五陰が、第二の国土世間と第三の衆生世間の構成要素とされて、
> 第一の五陰世間が「体」、第二・第三の世間が「用」と呼ばれた。
>  国土世間は、生類がその上で生きている依止(基体)あるいは場としての世界を指
> し、山川などの自然をも含む。衆生世間は、国土世間の上に住む一切衆生である。


  この記述を単純化して整理すると、以下のようになる(素人の私が浅薄な理解で捨象
 したものなので、不正確さはご容赦いただきたい)。

  五陰世間・・・・・物質などの世界の構成要素
  国土世間・・・・・生類が暮らす世界
  衆生世間・・・・・一切衆生

  これらを要約するとこうなる。
  十界 × 十界 = 百界   百界 ×(三世間 × 十如是)= 三千世間

  「一念三千」は十如是を介して、上述した「空・仮・中」の三諦円融・一心三観を包
 摂しているのである。

  「一念三千」の各構成要素についての説明は以上である。とてもわかりにくい説明に
 なってしまい恐縮だが、私ではこれが精いっぱいなので、より詳しく知りたい方は、専
 門書等にあたっていただければと思う。

  ここまで読んでいただけるとおわかりだろうが、天台教学では法華経の「十如是」に
 強引な解釈を行い、それを他の仏教思想と組み合わせることで、「一念三千」なる教義
 を生み出し、法華経にも〝空〟や、如来蔵思想が説かれているのだと強弁することで、
 「最高の経典」にふさわしく飾り立てたのである。

  さて、引きのばしにしてきた「十如是」の意味だが、岩波文庫版の『法華経』には漢
 訳だけでなく、サンスクリット原典からの日本語訳も記載されているので、十如是に該
 当する部分を、その少し前から引用する。


> 如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできる
> のだし、如来こそあらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、『それらの現象が
> 何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるもの
> であるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる
> 本質を持つか』、ということである。

 ※『』内が十如是に対応する。原文に『』はないが、理解の便宜をはかるため補った。

  読めばわかるとおり、どう見ても五項目しか挙げられていない。実は十如是というの
 は、漢訳法華経の翻訳者・鳩摩羅什の意訳というか創作である。この十如是に基づいた
 一念三千も、原典を十分尊重していない意訳に基いた、杜撰な教義ということになる。

  法華経のサンスクリット原典からの現代語訳を、気軽に読めるようになったことは、
 仏教学の成果を一般人も享受できることになったということであり、それ自体は喜ばし
 いことだが、仏教学の成果はそれだけではない。

  「五時八教の教判」の教判で、重要な根拠とされた「四十余年未顕真実」という文言
 がある無量義経は、中国で撰述された偽経だと仏教学では考えられている。法華経を含
 めた大乗経典は、釈尊滅後、数百年経って創作されたものであることも判明している。

  天台大師は、六世紀当時の中国において、社会的・宗教的なニーズに応える教義を説
 いた偉大な仏教思想家だった。実際、彼の説は、一千年以上の長きにわたり権威であり
 続けた。

  日本でも、日蓮だけでなく、多くの仏教者に強い影響を与えたし、今後も影響を与え
 続けるだろうとも思う。

  しかしながら、現在の学問に照らして、天台大師の教説を唯一無二の真理だというの
 は無理である。その無理を通そうとしているのが、創価学会や日蓮正宗だが、仏教にい
 くらかでも興味をもつ人にとって、彼らの主張は文庫本で読める入門書程度の知識さえ
 あれば「破折」できる、時代錯誤なたわ言でしかない。

  鎌倉時代の日蓮が、「五時八教の教判」や「一念三千」を疑う余地のない真理と見な
 したことは致し方ないことだが、現代社会に生きているにも関わらず、千年以上前に説
 かれ、しかも学問的に誤りが明らかになっている教義を、社会規範に反するやり方でゴ
 リ押しするのは、いかがなものだろうか。

  学会員の皆さんが、本当に仏法に関心を持っているのであれば、もう少し、見聞を広
 めるなり、本を読むなりしてみてはどうかと思う。例えば、岩波文庫の『法華経』など
 はどうだろうか。

  「御書根本」とかいいながら、その御書もロクに読まないし、「南無妙法蓮華経」と
 唱えながら、「妙法蓮華経」に何が書いてあるのか知ろうとしない人たちに、何を言っ
 ても無駄かも知れないが……。


補足 一念三千について

 実は、天台大師が一念三千について述べているのは、『摩訶止観』の上記引用の部分だ
けである。一念三千が天台教学の極理とされるようになったのは、中国天台宗第六祖・妙
楽大師湛然によるところが大きいといわれている。

 あと、本文では天台大師に対して、必要以上に辛辣になってしまったが、私には天台宗
を批判する意図はない。

 私の真意は、あくまでも、一念三千等の天台の教義をふりかざして反社会行為を働く、
創価学会を批判することである。気を悪くされた天台宗関係者の方がいらしたら、お許し
いただきたい。

2017年4月18日火曜日

私説〝五重相対〟(創価学会の矛盾)②

 ※ 承前《私説〝五重相対〟①

3、創価学会と漢訳法華経の相対(日蓮の矛盾)

  日蓮は、仏法が滅びる末法にあっては、最も優れた経典である法華経に帰依しなけれ
 ば救われない説き、他の経典に依拠している宗派を「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律
 国賊」などと否定した。

  しかし、法華経と日蓮の教えが、完全に一致しているとは言えない点もある。例えば、
 「南無妙法蓮華経」という文言は、実は法華経にはない。

  日蓮は『守護国家論』や『法華経題目抄』で、法華経の陀羅尼品に「汝等但能く法華
 の名を受持せん者を擁護せんすら福量るべからず」とあることを、題目を唱える根拠と
 して挙げている。これも一つの解釈ではあろう。

  だが、法華経には他にも様々な教えが説かれている。
  例えば、方便品には以下の記述がある。


> 若し、人、散乱の心にて 塔廟の中に入りて
> 一たび南無仏と称えば 皆、已に仏道を成ぜり
 (岩波文庫『法華経(上)』より引用)

  また、薬王菩薩本事品には、こう説かれている。

> 若し女人有りて、この経典を聞きて、説の如く修行せば、
> ここにおいて命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の、
> 大菩薩に囲遶せらるる住処に往きて、蓮華の中の宝座の上に生れん。
 (岩波文庫『法華経(下)』より引用)

 ※ 法華経が重要な経典とみなされた理由の一つは、それ以前に作られた経典に説かれ
  た「女性は成仏できない」という考え方を打ち消し、誰もが仏になれると説いている
  ことである。

 
  この方便品と薬王菩薩品の記述から、「南無阿弥陀仏」と唱えることにより、浄土へ
 の往生を願うという解釈も可能である。実際、日本に現存する念仏系の伝統宗派四宗の
 うち融通念仏宗は、法華経を依経として「南無阿弥陀仏」を唱える。

  日蓮は、法華経の実践法として、「日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智を
 きらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし」(『報恩抄』)と、専修唱題
 を説いたが、これが唯一の正しい解釈とは言い難い。

  私は、日蓮の解釈を否定しようとは思わないが、「念仏無間」などという独善的な主
 張には同意できない。

  もう一つの明らかな矛盾は、創価学会でも重視されている、『開目抄』の「一念三千
 の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」という主張である。

  「一念三千」とは、天台大師が法華経の方便品に記述に、独自の解釈を加えて主張し
 た教義であり、寿量品にはそのような記述はない。

  日蓮は、自分なりの宗教的な確信をもって、このような主張をしたのであろうし、そ
 の日蓮の確信に自身の信仰心を重ねることも、個人の内面における選択としてならば、
 尊重されるべきであろう。

  だが、実際には寿量品のどこにも書いてないことを、「寿量品の文の底にしづめたり」
 というのは、客観的に見れば〝根拠のない決めつけ〟であり、説得力のある主張とは言
 い難い。 

  創価学会員が日蓮の教えを信仰するのは自由だが、他の宗教をすべて「邪教」と決め
 つけ、強引な折伏で信仰を押しつけようとするのは、迷惑行為でしかない。

  日蓮もまた一人の人間であり、時として間違うこともあれば、後世における学問の進
 歩により、その主張の説得力が失われることもあるという事実を、学会員にも直視して
 ほしいものである。
 


補足(後半は蛇足) 南無妙法蓮華経も念仏か?

 日蓮遺文の一つ『諸法実相抄』に、「妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ」との記述
がある。この解釈によるならば、「南無妙法蓮華経」の題目も「南無仏」であり、念仏の
一種と言えるだろう。

 「日蓮はなかねどもなみだひまなし」の有名な一節で知られる『諸法実相抄』であるが、
残念ながら、この遺文の真蹟は現存しない。つまり、確実に日蓮が書いたものとは断定で
きない。

 真蹟のみを、その遺文の著者の思想を伝えるものとする考え方は、学問的に厳密な考証
を行うために必要だということは十分理解できるが、一抹の味気なさも感じないでもない。

 この考え方(「真蹟主義」と呼ばれる)によるならば、伝統宗派の祖師の著述の中でも、
特に広く読まれている親鸞の『歎異抄』も、本当に親鸞の思想か断定できないと言うこと
になるし、筆無精で知られる法然に至っては、その思想を論ずること自体、困難になって
しまうのではないか。

 だが、こうしたブログを運営してみると、揚げ足を取られないようにするためにも、真
蹟主義は有効な手立てだとは思うので、日蓮の思想を論ずる際には、できるだけ真蹟遺文
であるか否かに留意し、真蹟が現存しない場合は、その旨を記すようにするつもりである
(正直にいうとかなり荷が重いけれど)。

 仏教学にも歴史にもズブの素人の私だが、インターネットの普及は、情報の収集を飛躍
的に容易にし、検索するだけで、まったくの素人であっても、相当の知識を得ることを可
能にしてしまった。

 言いかえれば、たとえ素人でも杜撰なことを書けば、知的怠慢のそしりを甘受しなけれ
ばならなくなった。しかし、検索するだけなら一瞬だが、読んで理解するのにはそれなり
の時間を要する。

 言い訳がましく見えることは重々承知だが、当ブログの更新が滞ることがあった際には、
このような自己弁護を私がしていたことを思い出していただき、ご寛恕いただけると幸甚
である。

2017年4月16日日曜日

私説〝五重相対〟(創価学会の矛盾)①

 日蓮系の伝統宗派には、「五重相対」という、宗教の優劣を論じた教義がある。創価学
会も、破門されるまでは日蓮正宗の信徒団体であったことから、この五重相対という教義
も引き継いでいる。

 私もこの五重相対のひそみに倣って、創価学会の教義の矛盾を、その浅深に応じ、五段
階に分類して概観したいと思う(今回は二項目について論じる)。


1、創価学会と日蓮正宗の相対

  『人間革命』第二巻には「時代の進展によって変更しなければならない教義や、矛盾
 に満ちた宗教は、誤れる宗教と断定すべきである」と述べられている。

  確かに、教義がころころと変わるような宗教など、あてにならないし胡散臭い。矛盾
 したものを信じることなどできなし、そんな宗教に精神の安寧をもたらすことなど、望
 むべくもない。

  しかし、創価学会ほど短期間で教義が大きく変わった宗教など、そう多くはないだろ
 う。その証拠を『人間革命』から、いくつか挙げてみる。

  ・「大御本尊は絶対である」(第五巻 山本伸一〔『人間革命』では池田大作はこの
   名で登場する〕の言葉
   ※ この「大御本尊」とは、大石寺の大御本尊のこと。

  ・「私が今、願うことは、なにがどうあろうと、なにがどう起きようと、日蓮正宗の
   信仰だけは、絶対に疑ってはならぬということであります」(第六巻 戸田城聖の
   言葉)

  『人間革命』第五巻の発行は昭和44年(1969年)、第六巻の発行は昭和46年(1971
 年)で、創価学会が日蓮正宗から破門される20年前のことである。

  破門後の平成5年(1993年)発行の第十二巻には、戸田城聖が山本伸一(つまり池田
 大作)に対して、次のように遺言したと述べられている。


> 「……衣の権威で、学会を奴隷のように意のままに操り、支配しようとする法主も、
> 出てくるかもしれぬ。……ことに、宗門の経済的な基盤が整い、金を持つようになれ
> ば、学会を切り捨てようとするするにちがいない……。
 (中略)
>  そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退い
> てはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!」


  この遺言の真偽について、創価学会の元教学部長・原島嵩氏が、著書で次のように述
 べている。


>  池田は、こうしたウソを平気で作りあげることを得意としています。たとえば、戸
> 田会長が昭和三十三年四月二日に逝去されます。その時の最後の遺言は「追撃の手を
> ゆるめるな」ということになっています。私は、今にも亡くなっていく、衰弱しきっ
> た戸田会長が、このような遺言をするはずがないと思い、昭和四十七年ごろ、池田に
> 直接確認したのです。「先生、本当に戸田先生は〝追撃の手をゆるめるな〟と言われ
> たのでしょうか」といった質問をしました。それに対し、池田は平然と「あの言葉は
> オレが作ったんだ」と語ったことがありました。私はびっくりしました。あれだけ創
> 価学会員ならだれでも知っている戸田会長の遺言「追撃の手をゆるめるな」が、誰あ
> ろう池田の作った言葉だったとは! この言葉は、時として宗門に向けられたり、創
> 価学会を批判する人たちに向けられたりしました。
 (原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用)


  池田大作が、このような嘘八百を並べ立てて教団を私物化し、私利私欲の赴くままに
 やりたい放題やってきて、日蓮正宗側の堪忍袋の緒が切れたことが、破門にまで至った
 最大の原因だったのではないかと、私には思える。

  また、平成26年(2014年)11月18日の会則変更に伴い、『聖教新聞』紙上で以下の
 ように宣言されたことは、記憶に新しい。


> 大謗法の地にある弘安二年の御本尊(注:大石寺の大御本尊)は受持の対象にはいた
> しません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておき
> たいと思います。


  この『聖教新聞』の文章は、どう考えても「世界広布新時代の時を迎えた」ので、つ
 まり「時代の進展によって」教義を変更したとしか、受け取れないのだが……。

  本項で指摘した矛盾は、過去の創価学会と、現在の創価学会の矛盾でもある。私は学
 会員でないが、学会において「現代の御書」とされる『人間革命』の記述に基づき、こ
 のような「矛盾に満ちた宗教は、誤れる宗教と断定」することにやぶさかではない。
  

2、創価学会と日蓮の相対(日蓮正宗の矛盾)

  『人間革命』第二巻には、「私どもの一切の教義は、日蓮大聖人いらい七百年間、微
 塵もかわらない教えであります」との言葉があるが、これも嘘八百である。これは破門
 されて、自己正当化のために教義の変更を余儀なくされたことで、結果としてそうなっ
 てしまった、という上述の事情だけによるものではない。

  創価学会が日蓮正宗から受け継いだ教義自体、七百年間不変の教義などではない。日
 蓮正宗の教義は、その総本山である大石寺の第26世法主日寛が確立したものである。
  つまり、日寛が在世であった江戸時代以来、三百年の歴史しかない。

  日寛教学は、本来の日蓮の教えから大きく逸脱したものであるが、以下、その代表的
 なものである「日蓮本仏論」について述べる。

  創価学会や日蓮正宗では、日蓮を〝末法の御本仏〟と呼び、信仰の対象としている。
  宗祖・日蓮を究極の仏にまで祭り上げるこの教義は、日蓮系宗教のなかでも特異なも
 のである。

  妙法蓮華経 如来寿量品第十六は、久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦牟尼如来につ
 いて説く。久遠実成とは、歴史上の釈尊は仮の姿(化身)であり、仏の本体は、無限と
 もいえる過去から遥か未来まで存在し続けるとして、釈尊を神格化し、釈尊への信仰を
 正当化する教説である。

  天台宗や日蓮宗は、この久遠実成の釈迦牟尼如来を本尊としている。
  しかし、創価学会や日蓮正宗では、この久遠実成の仏は、迹仏(しゃくぶつ)であり、
 日蓮こそが本仏であるとする(「迹仏」とは本体(本仏)の影の意)。

  妙法蓮華経 従地涌出品第十五には、上行菩薩をはじめとする「地涌の菩薩」が登場
 する。日蓮系の伝統教団では、日蓮をこの上行菩薩の再誕と考える。

  創価学会や日蓮正宗もこの点は同じであるが、彼らの教義では、この上行菩薩こそが
 「久遠元初自受用報身如来」であり、久遠実成の釈迦牟尼如来を上回る究極の仏(本仏)
 だとする。

  その究極の仏が、法華経では菩薩として現れたのは、創価学会や日蓮正宗に言わせる
 と釈尊が在世であったので遠慮してのことらしい。

  そして、末法においては釈尊は脱仏(「ぬけがらの仏」といった意味)であり、本仏
 である上行菩薩の再誕、日蓮大聖人に帰依しなければ救われないというのが、日蓮本仏
 論である。

  この日蓮本仏論には、経典などの根拠は何もない。上行菩薩は先に述べたように法華
 経に登場するが、久遠元初の本仏など、法華経を含めどの教典にも出てこないし、日蓮
 も自分自身が久遠元初の本仏などとは一言も述べていない。

 ※ 創価学会版『日蓮大聖人御書全集』に収録されている『百六箇抄』には「久遠元初」
  の語や「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」との記述があるが、この遺文
  には日蓮の真筆は存在せず、後世に捏造された偽書である。『百六箇抄』の次に掲載
  されている『本因妙抄』にも「久遠元初」の語があるが、これも同様に偽書である。

  日蓮本仏論とは、法華経や日蓮遺文に〝文底秘沈〟と称して、好き勝手な解釈をほど
 こした、でっち上げに等しい教義である。

  〝文底秘沈〟とは、日蓮が『開目抄』で「一念三千の法門は、但、法華経の本門、寿
 量品の底にしづめたり」と述べていることに依っているが、学会や正宗の言う〝文底秘
 沈〟は、日蓮の言う意味と大きく違っていることは明白である。

  ちなみに「一念三千」とは、天台大師智顗が『摩訶止観』で説いた教説だが、一般に
 はこれは 法華経の方便品に基づくものとされる。

  天台大師や日蓮の主張は、現在の仏教学に照らせば、かなり難があるものであるが、
 それは 彼らが生きた時代の限界という面もあり、致し方がないことと思う。

  しかし、日蓮本仏論はあまりにも無理がありすぎる解釈で、歴史的経緯などでは正当
 化できない。

  実際、日蓮は、一切衆生は釈尊に帰依するべきであるのに、浄土宗などの他の宗派は、
 阿弥陀仏などを重視して釈尊を軽視している、という批判を、何度も繰り返しているの
 である。

  創価学会は、「日蓮大聖人直結」とか「御書根本」などと言っているが、日蓮の教え
 を軽視し、捻じ曲げているのは、どう考えても創価学会や日蓮正宗であろう。



補足 本来の「五重相対」について

 この教義は、日蓮がその代表的な著述の一つである『開目抄』で説いた宗教の優劣を、
後世に整理したものである(日蓮自身が「五重相対」という言葉を使った訳ではない)。
 その内容を簡単に述べる。


1 内外相対
  内(仏教)と外道(仏教以外)の優劣。仏教の方が優れているとする。

2 大小相対
  仏教の中での、大乗と小乗の優劣。大乗の方が優れているとする。

3 権実相対
  大乗経典を、実教(法華経・涅槃経)と権経(それ以外の経典)に分け、実教、特に
 法華経を優れているとする。

4 本迹相対
  法華経の前半(迹門)と後半(本門)の優劣についての考え方。日蓮系の教団は、両
 方とも等しく重要だと考える一致派(日蓮宗)と、本門の方が重要と考える勝劣派(日
 蓮正宗など)で、教義が大きく異なる。

5 教観相対(日蓮宗)、種脱相対(日蓮正宗)
  五重相対の最後については、日蓮宗と日蓮正宗では、呼び名も異なる。
  日蓮は『開目抄』で「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」
 と述べているが、この一節についての解釈が異なるためである。


 五重相対は、法華経を最も優れた経典とする、天台大師の五時八教の教判に依拠するが、
法華経を含めた大乗経典のすべては、釈尊滅後、数百年経って創作されたものであると判
明した現在では、その説得力は失われていると言わざるを得ない。

2017年4月14日金曜日

創価用語の基礎知識②

にちれんしょうしゅう【日蓮正宗】
 日蓮系の伝統宗派の一つ、日蓮宗とは別の独立した宗派。総本山は大石寺(静岡県富士
宮市)。日蓮本仏論を掲げ、宗祖・日蓮を極度に神聖視している。日蓮を「本仏」という
究極の存在にまで祭り上げているため、日蓮の主張は、一切の妥協を排して実現すべきも
のと考えられている。そのため、この宗派は極端に独善的・排他的である。この排他性が、
創価学会や顕正会のような、有害なカルト教団を生み出した背景となった。
 しかしながら、日蓮が自らを「本仏」として崇拝せよと述べた真筆遺文など、一つも存
在しない(明らかな偽書とみなされている古文書の中にはある)。
 また、大石寺の大御本尊を、日蓮が「出世の本懐」として作った特別なものだと主張し
てもいるが、これも、日蓮が弟子の一人、日禅に与えた本尊をもとに後世模刻されたもの
だと考えられている。

 参考ウェブサイト:佛教再考(犀角独歩氏が運営されているサイト)


にっけんしゅう【日顕宗】
 創価学会が日蓮正宗を呼ぶ蔑称。学会を破門した大石寺法主・阿部日顕氏にちなむ。創
価学会では、日顕氏を「仏敵」に認定し、各地の会館で「日顕」と記した紙を床に置いて
学会員に踏み絵をさせたり、「仏敵撲滅唱題」と称して呪詛したりしていた。


ほんぶつ【本仏】
 一言でいうならば〝あらゆる神仏の本体である究極の仏〟といったところ。天台宗や日
蓮宗では、法華経の如来寿量品が説く、久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦牟尼如来を
本仏とする。
 日蓮正宗・創価学会・顕正会では、日蓮を本仏だとするが、日蓮自身は「ひとり三徳を
かねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる」(南条兵衛七郎殿御書)と述べている。
 創価学会には非公式の教義として、現在では池田大作が、この本仏であるとする〝池田
本仏論〟というものもある。
 世間一般の大部分の人にとって、池田大作は頭がおかしい俗物に過ぎないが、『聖教新
聞』などの学会の出版物によって、マインドコントロールされた学会員にとっては、至高
にして至聖、神聖にして犯すべからざる存在なのである。

 ※ 三徳とは「主であり、師であり、親である」こと。法華経の譬喩品に由来する考え
  方で、日蓮はこの三徳を本仏の特性として重視した。


ふくうん【福運】
 いわゆるご利益のこと。創価学会では「ご利益」という言葉はあまり使われず、「福運」
がよく用いられる。用法は「福運がつく」など。


ほうぼう【謗法】
 「謗法」と書いて「ほうぼう」と読む。誹謗正法の略語。日蓮は、法華経が最も優れた
経典だと考えていたので、法華経を軽んじ、他の経典の教えを重視することは「謗法」に
あたると主張した。
 創価学会は、自らのみが唯一の正統な仏法であると主張し、創価学会以外の宗教を、法
華経を信奉する他の教団を含めて、すべて謗法としている。


ほうぼうばらい【謗法払い】
 謗法にあたる他の宗教の信仰の対象を破却すること。元は日蓮正宗の教義。創価学会は
昭和20年代から30年代に、折伏大行進と称して、強引な布教活動を進め、この謗法払いも
大きな問題となった。具体的には、他人の住居に押し入って、神棚や仏壇を壊したり、焼
き払ったりするという狼藉を働いた。
 創価学会が、危険な集団であるというイメージは、当時の彼らの振る舞いに起因すると
ころが大きい。

 参考:当時のニュース映像 https://www.youtube.com/watch?v=ZMf6IB9XKQI


えふとり【F取り】
 公明党の選挙運動。"F"とはフレンドの略。創価学会員以外で、公明党に投票してくれ
る協力者を獲得することをいう。
 多くの学会員が選挙運動を懸命に行うのは、公明党の政策が優れていると思うからとか、
他よりはマシそうだからといった、一般的な理由からではない。
 彼らがF取りに励むのは、公明党の候補者は「池田先生が選んだ人」だからであり、そ
の人を当選させることは、「功徳」になり現世利益が得られる(彼らの言い方だと「福運
がつく」からである。
 選挙を、呪術的なご利益信仰と結びつけるこうしたあり方は、異様としか言いようがな
い。かつて、政治評論家の藤原弘達氏が、著書『創価学会を斬る』で、学会の選挙運動を
民主主義の「ドブさらい」と酷評したが、妥当な評価だと言えよう。


ざいむ【財務】
 毎年、年末に実施される金集め。一口一万円からで上限はない。詳細は当ブログでこれ
までに述べたので、ここでは詳述しない。


こうふききん【広布基金】
 学会の会館で実施されるイベントに際しての金集め。金額の規定はないが、数千円程度
が一般的。
 正月の新年勤行会(1月2日は池田大作の誕生日でもある)、5月3日の会長就任記念日、
11月18日の創立記念日などに徴収される。


まいせいきょう【マイ聖教】
 創価学会の機関紙『聖教新聞』を、一家庭で何部も取ること。対外的には〝家族ひとり
ひとりがスクラップをノートに貼って勉強するのに必要〟などと言い訳しているが、大半
の学会員は、地域の幹部から「『聖教新聞』は池田先生からのお手紙だから、たくさんと
ると功徳がある。福運がつく」などと吹き込まれて、そうしている。
 こうした手口は、学会の他の出版物についても、同様に行われている。例えば、『人間
革命』のハードカバー版を持っているにもかかわらず、文庫版も購入する学会員は多いが、
彼らがそうする理由も、やはり「功徳になるから」である。実質的には、霊感商法と大差
ないやり方である。


みんしゅう【民衆】
 広く一般の人々をさす言葉であるが、創価学会においては特別な意味がある。実は、学
会が「民衆」という場合、創価学会員のことだけを言うことが多い。そのような文脈では、
学会員でない者は「非民衆」と呼ばれる。
 創価学会は、「平和」とか「人権」といった、広く社会全体に恩恵をもたらす理念で自
らを飾ろうとするが、彼らがこうした綺麗な言葉を使う際も、多くの場合、「民衆」と同
様の含意がある。
 「民衆」という言葉の、こうした特殊な用法は、彼らが本質的に利己的な集団であるこ
との証左である。



※ 池田本仏論や、折伏大行進の際の過激な謗法払いなどについては、いずれ稿を改めて
 詳述したいと考えている。

2017年4月12日水曜日

創価用語の基礎知識①

 『人間革命』は学会員にとっては、創価学会の教えが説かれた聖典といってもいい本で
あるが、創価学会について知りたい外部の人間にとっても示唆に富む書物である。

 例えば、第七巻に記されている戸田城聖の以下の指導は、創価学会がどんな宗教かを、
端的に物語っている。

> (前略)御本尊は幸福になる機械です。その使用法は朝五座、夜三座の勤行と、年に
> 十名の折伏という実践です。
>  金をつくり、健康をつくり、人生を心ゆくまで楽しんで死のうではありませんか


 これを読むとわかるように、勤行と折伏という、わかりやすい実践をやりさえすれば、
「金と健康」が手に入るという、即物的なご利益信仰が、創価学会の中心的な教義なのだ。
 どうも品性に欠けるし、頭が悪そうと思うのは私だけだろうか。

 それはさておき、この記述どおりだったのは以前のことで――『人間革命』第七巻の初
版は昭和47年――今の創価学会では、財務をはじめとする教団への献金も、折伏・勤行な
どと同様に重視されている。

 さて、上記の引用についてであるが、短い文章の中にも「折伏」など、いくつかの宗教
用語が含まれている。

 金集めや選挙運動が目立つ創価学会であるが、彼らは一応、宗教でもあるので、一般社
会ではあまり使われない、特殊な用語も少なからず使われる。

 中には、学会員が使う耳慣れない言葉に意味がわからず、戸惑った経験がある方もおら
れるのではないだろうか。

 そこで、創価学会で使われる、いわば「創価用語」とでもいうべき言葉のうち、代表的
なもの、いくつかについて解説を試みたい。

 そうした言葉の意味を知ることは、彼らの反社会性や異常さについて理解する上でも、
有用ではないかと愚考する次第である。



ざだんかい【座談会】
 創価学会では、各地区ごとに開かれる集会をいう。座談会では〝信心をしたらこんな功
徳があった〟などの体験談の発表や、日蓮遺文の勉強会などが行われる。


しゃくぶく【折伏】
 創価学会が行う強引な入信勧誘。かつては社会問題になり、マスコミでも報道された。
現在でも、一方的に議論を仕かけて、「負けたら創価学会に入れ」などと、強引な折伏を
する学会員も少なくない。大学新入生や新社会人は要注意。


しゃくざ【折座】
 折伏座談会の略。一人の未入信者を、数人から十数人の学会員で取り囲み、入信を迫る
という恐怖の集会。異性で釣ったり、趣味のサークル活動を騙ったりして、標的をおびき
出すことも多い。


ほんる【本流】
 本尊流布の略。折伏を受けて、学会に入信することになった人に、御本尊を購入させる
こと(一幅三千円)。この本流を決めた人が、折伏の功績があったことになるので、折座
の場合、誰の本流にするか揉めたり、上位の役職者が下の者の手柄を横取りすることも、
時にあるという。


くどく【功徳】
 現世や来世において幸福をもたらす善行を意味する仏教用語。転じて、功徳を積んだこ
とによりもたらされるご利益も意味する。学会では、後者の意味合いで使われることが多
いようである。ちなみに、功徳即利益という考え方は、天台大師にまでさかのぼるもので、
学会特有の用法という訳ではない。


げんしょう【現証】
 ご利益または罰が、現にあったという確証。これも仏教用語で、別に創価学会だけで使
われる言葉という訳ではないが、学会員が何かというと「ゲンショウ、ゲンショウ」と、
この言葉をむやみに濫用することから、かつて「ゲンノショウコ宗教」と揶揄されたこと
がある。


こうせんるふ【広宣流布】
 布教を意味する。出典は法華経。学会員は、この言葉を子供の名前に付けることがある。
「広宣(ひろのぶ)」など。「宣」の一字を名前の一部に使うことも少なくない。


ござさんざ【五座三座】
 日蓮正宗における勤行の決まり事で、法華経の方便品・寿量品を、朝に五回、夕に三回
読誦すること。創価学会も、かつては日蓮正宗の傘下だったので、この通りに読誦してい
たが、破門されてから、朝夕一回ずつでよいことになった。これは、池田大作が勤行嫌い
だからだと噂されている。


ごんぎょう【勤行】
 この言葉を知らない人はいないと思うが、お経を読むこと。


ごしょ【御書】
 日蓮遺文のこと。日蓮直筆の遺文も中山法華経寺などに保管され、少なからず現存して
いるが、日蓮の名を騙った偽書や、写本しか現存しないため真偽不明というものも多い。
 創価学会版『日蓮大聖人御書全集』にも、真偽不明のもの、または明らかな偽書も、多
数収録されているが、大半の学会員はあまり頓着していない。
 そもそも創価学会は、「御書根本」などと称してはいるものの、学力が乏しいために、
御書を読めない学会員も少なくない。


ごほんぞん【御本尊】
 創価学会の本尊は、日蓮が考案した十界曼荼羅がもとになっている。各家庭の仏壇に安
置されている御本尊は、表装なども含めてビニールシートに印刷した量産品で、そのチー
プさから、しばしば「カラーコピー」と揶揄される。
 実は日蓮本人が書いた十界曼荼羅も、120あまり現存しているが、創価学会の教義では、
それらの本尊は拝んではならないことになっている。
 創価学会は「日蓮大聖人直結」と称しているが、日蓮直筆の本尊を拝まず、量産品の安
っぽい本尊を拝むことが、なぜ日蓮に直結することになるのか、筋の通った説明ができる
学会員は少ない。



ほけきょう【法華経】
 正式名称は「妙法蓮華経」。天台僧であった日蓮は、天台宗の教義、五時八教の教判と
末法思想に基づき、この経典のみが、末法において唯一有効であると考えた。
 創価学会のせいで、反社会的な教えを説いた経典のように誤解している人もいるが、大
乗仏教における重要経典であり、天台宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗などの伝統宗
派で読誦されている。
 その教えも、仏像を礼拝供養する者は仏道を成じるとか(方便品)、修行すれば来世で
阿弥陀仏の浄土に生れることができるとか(薬王菩薩本事品)、観音菩薩を拝むとご利益
があるとか(観世音菩薩普門品)といった、日本の昔からの仏教徒の多くにとって、なじ
み深いものである。
 ちなみに創価学会は、上に挙げたような法華経の教えを、すべて否定している。彼らは
「法華経の教えは嘘八百だ」と念じながら、南無妙法蓮華経と唱えているのだろうか。カ
ルトの教義の意味不明ぶりにはあきれるしかない。
 なお日蓮は、『法華経題目抄』で、「往生極楽は法華を憑(たの)まば疑ひなし」と、
極楽往生したいなら、南無阿弥陀仏と唱えるより、南無妙法蓮華経と唱えた方がよいと主
張している。
 また『開目抄』では、「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」とも述
べている。日蓮が正しいならば、法華経の教えをことごとく否定する創価学会員が、地獄
に堕ちるのは必定である。

 ※ 仏教の経典でいう「品」(「ほん」と読む)とは、一般の書籍の「章」に該当する。



補足
 上述の「往生極楽は法華を憑(たの)まば疑ひなし」の文言は、創価学会版『日蓮大聖
人御書全集』では、948ページに記載されている。
 また、『法華経題目抄』は、日蓮の真筆の断片が、京都の本圀寺、妙覚寺などに所蔵さ
れている。

2017年4月10日月曜日

そもそも『人間革命』とは

 題名だけならほとんどの人が聞いたことがあるであろうが、実際に読んだことのある人
は少ない『人間革命』について解説したい。

 『人間革命』は、戦時中、当局の弾圧を受けてほぼ壊滅していた創価学会を、当時の理
事長・戸田城聖が立て直し、その後会長に就任して、大教団に発展させる過程を描いた小
説で、表向きの著者は戸田門下生の代表を自称する池田大作である。

 初代会長・牧口常三郎、第二代会長・戸田城聖、日蓮正宗法主は実名で描かれるが、そ
れ以外の人物は仮名である。池田大作は、「山本伸一」として登場する。

 描かれている時期は、昭和20年7月、治安維持法違反で逮捕され、獄中にあった戸田城
聖が出獄するところから、昭和35年5月、山本伸一が第三代会長に就任するまである。
 『新・人間革命』には、それ以降が描かれている。

 『人間革命』には、小説の舞台である昭和20年代の、経済情勢、国際情勢などの世相に
ついて、かなり正確に描かれており、あたかもノンフィクションのような趣もある、と言
えなくもない。

 疑う余地のない事実の中に織り込むことで、ウソやデタラメにも信憑性を持たせようと
いう魂胆で、当時の社会情勢を詳述しているのではないかと思われる。

 第一巻のまえがきには、ゲーテの自伝について言及した後「私もまた、先生の真実の姿
を永遠に伝えるために、心をくだかねばならぬ」と述べられ、最終巻である第十二巻のあ
とがきにも「恩師の真実を伝える伝記」と記されているが、実際は、『人間革命』には多
くの欺瞞やごまかしが含まれている。

 例えば、著者は池田大作ということになっているが、実際の執筆者は、学会の外郭企業
の一つ、東西哲学書院の社長であった篠原善太郎氏である。執筆者からしてウソなのだか
ら、どれだけの虚偽が含まれているかは推して知るべしであろう。

 創価学会にとって、都合のいい事実は述べるが、都合の悪いことはいっさい書かない。
場合によっては、白々しい綺麗事でごまかす。これが『人間革命』の特徴である。
 創価学会における『人間革命』の主要な役割としては、以下の三つが考えられる。

1、戸田城聖や池田大作の神格化
2、創価学会は唯一正しい宗教と学会員を洗脳
3、他の宗教を論破するためのマニュアル(折伏のマニュアル)

 つまり『人間革命』とは、『聖教新聞』等とならんで、学会員をマインドコントロール
し、組織の手駒として働かせるための手段の一つなのだ。

 今後、『人間革命』の問題点を当ブログで取り上げていく予定だが、今回はそのさわり
として、数ある欺瞞の中の一部を取り上げる。

 『人間革命』第二巻に、昭和21年(1946年)11月17日に営まれた、学会の初代会長・牧口
常三郎の三回忌法要に際して、日蓮正宗僧侶が行なった法話について述べられている。そ
こから一部引用する。


>  つぎに細井尊師が、張りのある朗々とした声で、話しはじめた。
>  近代神道が、本居宣長、平田篤胤等によって、仏法を仇敵と見なして、天台や日蓮
> 大聖人の悪口をいう邪見からはじまった。その由来を述べ、いらい多くの学者の邪見
> は悪見を生み、今日の日本の運命を招いたと断じ、つぎのように結んだ。
> 「日本は、まさに邪見の宗教によって敗れ、しかもなお、邪見の学者によって堕落し
> ている今日、牧口先生の志を継いで、われわれ同志は、立宗の教義を深め、ますます
> 広く流布し、正しいものは正しく認識するような研究が行われんことを、希望する次
> 第であります」
>  一年まえの一周忌といい、また今回の法要といい、後の猊座に上られた二人の尊師
> が、多数の御僧侶のなかからとくに臨席され、亡き牧口会長の追善を祈られたことは、
> 宗門と学会とが深い宿縁で結ばれているものと感ぜられた。堀米尊師とは、後の第六
> 十五世日淳猊下であり、細井尊師とは、現在の第六十六世日達御法主上人猊下のこと
> である。


 わずか十数行の引用であるが、この中には、いくつもの欺瞞が含まれている。
 まず、本居宣長、平田篤胤が仏教を批判したのは事実であるが、彼らは何の根拠もなく
批判したのではない。引用では、ただ悪口を言っただけのように書かれているが、それは
史実と異なる。

 江戸時代の学者に富永仲基という人物がいる。富永は、大乗仏教の経典を精読し、大乗
経典は釈尊が一代で説いたものではなく、実際に釈尊が説いた初期経典に、後世、次第に
新たな教説が付け加えられていったことで成立したとする「加上説」を主張した。

 この説が正しければ、〝法華経こそが、釈尊がその人生の最後の段階で説いた最も優れ
た経典である〟と説く、天台大師の五時八教の教判や、それに依拠して他宗を批判した日
蓮の主張からは、根拠が失われることになる。

 本居宣長、平田篤胤は、この富永仲基の論証に基いて仏教批判を行った。現在の仏教学
でも、富永の主張は大筋で正しいと考えられている。

 『人間革命』第八巻にも、戸田城聖が、大乗経典が非仏説であることを学問的に明らか
にした、近代の仏教学について、イギリスがインドの植民地経営の必要上から発展させ、
ロンドンで確立した「ロンドン仏教」であると揶揄し、「非常に片端な釈迦仏法」と断定
する場面が描かれている。

 富永仲基という、仏教学の偉大な先駆者が本邦にいたことには、いっさい触れられてい
ない。

 このように『人間革命』は、一応は事実に即して記述されているが、一方で不都合な事
実を隠蔽している。都合の悪いことを隠さなければ、正統性を主張できない創価学会が、
「唯一正しい宗教」であるはずがない。

 富永仲基の名とその功績は、広く知られている。池田大作はともかく、『人間革命』の
本当の執筆者、東大文学部卒の篠原善太郎が知らなかったはずはない。知っていて意図的
に書かなかったのである。

 ある程度の知識がある人間にとっては、『人間革命』のインチキは一目瞭然である。
 こんなものを疑うことなく信じ込んでる学会員は、低能の集団と言わざるを得ない。

 また、「宗門と学会とが深い宿縁で結ばれている」というのは、今となっては噴飯もの
であろう。特に細井日達氏と池田大作の不仲は有名である。池田大作は、公衆の面前で時
の法主であった細井氏を面罵したことが何度もあった。

 日蓮正宗では、大石寺法主の地位は教義上特別のもので、単に一宗の管長というだけに
とどまらない。池田大作の不遜な振る舞いは、後に多くの造反者を生む遠因となった。

 『人間革命』のデタラメは、挙げていけばキリがないので、今回はここで一端、筆をお
くが、前述のとおり、次回以降も引き続きこの問題を取り上げていく。



補足 大乗非仏説論についての私見

 日本の伝統仏教各派が依拠している大乗経典、すなわち華厳経、法華経、般若経、大日
経、金剛頂経、無量寿経、阿弥陀経等の大乗経典は、上述のように、実際に釈尊が説いた
ものではないことが、今日では明らかになっている。

 しかし、それらの大乗経典もまた、真摯な仏道修行の成果として生み出されたことは事
実であろう。加えて、古代インドにおける社会や仏教教団の発展・変遷が、時代に即した
教えを必要としたことも汲むべきである。

 また、風土、言語、文化、風習、政治・経済の体制などが異なる社会に、仏教が伝搬す
るに際して、その社会で受け入れられるためには、一定の変容はやむを得なかったと考え
られる。

 そして、各宗派の祖師方の宗教的確信や省察に、魅力や説得力を感じた人々が多くいた
からこそ、それらの宗派は現在まで受け継がれてきたのであり、今や日本の伝統文化の一
部にまでなっているのだ。

 こうしたことから、大乗経典が釈尊が説いたものでないからと言って、伝統宗派を否定
しようとは、私は思わない。

 だが、特定の経典を「唯一絶対の教え」と称して、信教の自由のを侵害するような強引
な勧誘を行う宗教を容認することはできない。

 現状では、そのような教団は、創価学会などの日蓮正宗系カルトだけのようだが。

2017年4月8日土曜日

創価学会の信心の現証について

 私はこれまで、創価学会を脱会して批判者に転じた人々や、ジャーナリストの手による
批判本・暴露本に基づいて、創価批判を行ってきた。

 しかし、創価学会が世間一般に向けて発信している情報の多くを無視して、外部の批判
者のみに依拠する姿勢には、公平性に難があったと認めざるを得ない。

 それに、私個人が一部の学会員によって不愉快な思いをさせられたからといって、創価
学会の主張にいっさい耳を傾けようとしなければ、私の主張からも説得力が失われること
にもなりかねない。

 私はこれまでに、学会員から何度も折伏を受けた経験があるが、その際に聞かされた、
「正しい宗教は幸福をもたらし、誤った宗教は不幸をもたらす」「信心の現証」云々につ
いては、何の根拠もない非科学的なたわ言として、聞き流していた。

 だが、今般、創価学会の代表的な出版物である『折伏経典』と『人間革命』を読み、学
会員のいう「信心の現証」について、何も根拠がないとは言えないのではないかと感じた。

 以下、反省と自戒の念を込めて、「誤った宗教は人を不幸にする」という、創価学会の
主張の妥当性について論じたい。


 創価学会の教義がまとめられている『折伏経典』には、以下の記述がある。


>  日蓮大聖人のお姿を刻んだり、絵にして拝み、これを信仰の対象として、いかにも
> 大聖人をあがめたてまつったように思っているのが邪教日蓮宗の通例である。
 (中略)
>  ゆえに大聖人を信じ、大聖人の仏法を修行するならば「南無妙法蓮華経」の法本尊
> と、日蓮大聖人ご自身である人本尊、この人法一箇である一閻浮提総与の本門戒壇の
> 大御本尊に向かって唱題修行する以外にないのである。
>  これを知らずして絵像等を拝むことは、大聖人の教えに反する邪義であり堕地獄の
> 因となることは明らかである。
>  事実、調べてみると、真の仏法を知らずして大聖人に関係した小説等を書き、また
> 像を刻んだり絵を書いたりした者は、その直後において半身不随や原因不明の病気に
> なって、必ず、その最後は地獄の相を現じて、悲惨な死に方をしているのである。

 ※ 『折伏経典』は出版された年代によって内容が異なるが、上記は昭和43年の改訂第
  26版からの引用である。


 日蓮宗に限らず、宗祖の姿を刻んだ木像を御影堂などにまつるのは、どの宗派にでも見
られることであり、私個人としては、日蓮宗が邪教とは思わない。少なくとも現在の日蓮
宗は、創価学会と違って社会に迷惑をかけてはいない。

 それに、創価学会がかつて信奉していた、日蓮正宗の総本山大石寺にも御影堂はある。
大石寺の御影堂には、室町期の作と伝えられる日蓮像が安置されている。

 『人間革命』第一巻には、当時創価学会の理事長だった戸田城聖が、昭和21年元旦に大
石寺に参詣した際の記述があるので、以下に引用する。


>  戦時中、身延との合同統一を、強制的に行なおうとした政府の役人たちまで「まっ
> たく、針金のような宗団(注:日蓮正宗をさす)である」ともらし、いかんともなし
> えなかった。今日の隆盛にそなえて、清浄に大法を厳護した僧侶の功績に対し、深く
> 敬意を表したい。これほど、清浄にして慈悲に満ちた宗団が、世界の何処にあろうか。
>  戸田は、悲痛な思いを胸に歩きだした。そして御宝蔵の前で、深く頭を垂れた。そ
> のあと、三人と連れだって、暮色に包まれた御影堂のほうへ廻っていった。
>  御影堂の参拝をすませると、四人して階段を下りていった。


 このように、『人間革命』には、戸田城聖をはじめとする当時の創価学会幹部が、大石
寺の御影堂に参拝したと、はっきり書かれている。

 『人間革命』の著者である池田大作は、現在、脳梗塞の後遺症により半身不随との風説
もある。彼がいっさい公の場に出てこないところをみると、この風説はおそらく事実なの
であろう。

 そして、この風説は『折伏経典』の記述と、少なからず符合する。「道理証文よりも現
証には過ぎず」とは、まさにこのことであろう。

 池田大作の現在の姿は、日蓮正宗及び創価学会という、誤った宗教の信仰や、それを小
説に書いたことが、「堕地獄の因」となってもたらした悪現証だったのである。なんと恐
ろしいことであろうか。

 私は度重なる学会員からの折伏にもかかわらず、今まで創価学会に入らずにきたが、そ
のことの幸運を、あらためてしみじみと感じた次第である。


 以上は冗談だが、誰の人生にも、多かれ少なかれ禍福はあるものである。時として病気
やケガをしたり、それが平癒したり、期待を上回る幸運に恵まれたり、思わぬ不幸にあっ
たり、といったことはままあることだ。

 それを個人の内面で、信仰と結びつけて解釈すること自体は、当人の自由である。創価
学会員は、自らが不幸にあうと〝転重軽受〟と解釈し、学会員でないものに不幸があれば、
邪宗教を信仰したことによる罰だと考えるようだが、これも心に思うだけなら、当人の勝
手である。

 だが学会員は、このような我田引水の牽強付会な解釈――要はただの思い込み――を、
あたかも客観的に検証された事実であるかの如くいい、創価学会が正しい宗教である証拠
だと主張する。

 『人間革命』にも、そうした御都合主義の記述が多数ある。そんな御都合主義が許され
るのならば、なんとでも言える。例えば上述のように。

 『人間革命』をはじめとする創価学会の出版物は、ことほど左様に突っ込みどころ満載
である。今後、当ブログでは『人間革命』の問題点も、適宜に論じていきたい。



補足 転重軽受とは

 この教義の説明については、『転重軽受法門』という日蓮遺文から引用するのが適切と
思われるので、以下をご覧いただきたい。 


>  涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦
> を受くべきが、今生にかかる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候
> へば人・天・三乗・一乗の益をうる事の候。


 この教義は、輪廻転生を前提とした教えである。前世からの宿業により、来世には地獄
に堕ちてもおかしくない人が、正法に帰依することで、来世で地獄で受けるべき罰を、現
世に引き寄せて重苦にあう――それでも地獄と較べれば軽い難として受ける――ことによ
り、「地獄の苦しみぱっときへ」る。つまり〝重き(業)を転じて軽く受ける〟ことをい
う。

 創価学会の信仰は、金が儲かるとか、病気が治るとかの即物的な現世利益に極端に偏っ
たものであるが、当然のことながら、創価学会に入って題目を唱えたところで、誰の人生
にでも起こり得る様々な禍福を、思いのままにできるという訳ではない。

 学会員であれ、他の人と同じように、時として不幸に直面することもあるだろう。そう
した際に、学会員が信仰に疑いを持つことがないようにするために用いられるのが、この
転重軽受という教義である。『人間革命』にも、この教義を説明した箇所はある。

 日蓮の信仰は、必ずしも現世利益一辺倒という訳ではないが、創価学会員には、信仰と
いうものが一般的に持つ、敬虔さとか高潔さといった精神性は、ほとんど皆無と言って差
し支えない(学会員ならば「そんなものは一銭にもならない」と言い出しかねない)。

 日蓮が最重視した法華経は、「人は誰もが救われる(仏になれる)。それ故にすべての
人を敬い、尊重すべきである」という、普遍性のある教えを説いた経典なのだが……。

 それが、創価学会では「金が儲かる、病気が治る」ばかりが強調され、あまつさえ学会
にとって不都合な相手に対して、組織的な嫌がらせまで行っている。私には、日蓮や法華
経の教えを、冒涜しているようにしか見えない。

2017年4月6日木曜日

創価学会が社会から受け入れられない理由

1、対自(外から見た姿)と即自(自ら思い描く自分の姿)の矛盾

 外部から見た創価学会の実態は、集金団体・集票団体・人権侵害団体であるが、学会員
は、「創価学会は唯一の正しい宗教」と考え、財務などの金集めや、F取りと称する選挙
運動、脱会者・批判者への嫌がらせも、功徳になる、言い換えると現世利益につながる宗
教行為として実践している。

 だが、学会員が、主観的には信仰に基づいた正しい行為と信じ、実践していることの多
くは、一般社会の大部分の人にとって、ただの迷惑行為でしかない。

 学会員にとって創価学会の主義主張は、原則として妥協してはならない宗教的理念であ
り、時に形勢不利にあって妥協を余儀なくされることがあったとしても、究極的には、彼
らが社会に歩み寄るのではなく、社会の方を彼らの宗教的理念に屈服させることを目指し
ている(この点、創価学会は伝統宗教よりも、共産主義などのイデオロギーに似ている。
学会が共産党と敵対するのも、似た者同士だからだろう)。

 外部の人間にとっては、創価学会のこのような姿勢は、既成の社会秩序への挑戦としか
見えない。学会員が、自らが正しいと考える信念を実行しようとすればするほど、社会か
らより胡乱な目で見られるという結果を招いてしまう。

 このジレンマは、創価学会の教義に根ざすものであり、克服は容易ではない。実際、創
価学会への批判は、昨日今日に始まったものではなく、数十年前から同じような批判が繰
り返されているが、創価学会の体質はまったく何も変わっていないように見える。


2、聖俗を一致させる前近代的思考

 創価学会は、自らを「唯一の正しい宗教」と規定し、彼らの宗教的論理を社会全般にわ
たって適用・実践しようとしている。

 学会員は自らの正当性の根拠を、鎌倉時代の僧、日蓮に求めるが、日蓮の主張もまた、
彼の生きた時代の歴史的制約を免れるものではない。

 日蓮は、天台大師智顗が唱えた仏教経典の序列「五時八教の教判」に準拠し、法華経こ
そが最も優れた教典と主張し、法華経に基いた鎮護国家を構想していた。

 鎌倉時代において、大寺院は広大な荘園を領する封建領主でもあり、高僧は統治者でも
あった。寺領においては、宗教的正統性が統治の正統性と直結していたのである。

 日蓮の主張は、こうした鎌倉時代の歴史的・社会的文脈を踏まえて理解する必要がある。
当然のことながら、それは現代社会において、そのまま適用可能なものではない。

 中世の社会や、その時代に生きた人々の考え方が前近代的だからといって、それを批判
することは妥当ではないし、そもそもそんな批判をしても何の意味もない。

 だが、前近代の論理を現代でそのまま実践しようとする者が、もし現われれたとすれば、
社会との軋轢は避けがたい。

 創価学会は、聖俗未分離の前近代の論理を、そのまま現代社会に持ち込もうとしている。
批判を受けて当然である。

 現代社会においては、政教分離が原則であり、信仰は個人の内面の問題とされている。
しかし、創価学会にとっては、信仰は統治の基本原理とすべきものであり、創価学会以外
の宗教に対して信教の自由を認めることは、彼らの理想とは相容れない。

 創価学会・公明党は、「王仏冥合」という、聖俗一致を目指す主張を、公的には取り下
げたが、彼らが実際にやっていることを見る限り、個々の学会員の思考様式・行動様式に
は、聖俗一致の前近代的発想が根深く刻印されていると言わざるを得ない。


3、ルサンチマンに根差した承認欲求

 創価学会員には、社会的には底辺・下層とされる出自が多い。そうした出自に由来する
社会へのルサンチマンと、その裏返しとして社会からの承認を求めようとする傾向が、彼
らの行動に、小さくない影を落としている。池田大作が、世界各国から勲章や名誉称号を
集めるのは、その典型例であろう。

 問題は、創価学会が社会から受け入れられるための手段として、社会規範を内面化する
自己陶冶ではなく、社会の方を自分たちにとって都合のいいように変えようと試みたり―
―公明党が政権与党になっていることや「総体革命」と称する各界への進出――それがか
なわない場合、言論出版妨害事件の後に、王仏冥合を形だけ取り下げたことに見られるよ
うに、面従腹背的対応で切り抜けようとすることにある。

 前述したように、創価学会の目指す社会は、近代の原理とは相容れないものであるため、
彼らが「あるがままの自分たちを認めよ」と社会に求めることは、必然的に一般社会との
衝突を引き起こすことになる。

 昨年11月の会則変更で、学会が自らを「創価学会仏」と規定したことに見られるように、
彼らは自己神格化・絶対化を進めており、自らを社会に馴致させようとする姿勢は見られ
ない。

 こうした事実を目にすると、残念ながら、創価学会の反社会的体質は、当面のところ変
わりそうにないと言わざるを得ない。

2017年4月5日水曜日

これまでのまとめ

 当ブログを開設して一か月が経過しました。
 私のつたない文章を読んでくださっている読者の皆様がいらっしゃることは、励みにな
っています。ありがとうございます。

 さて、検索などが契機となって、このブログにいらっしゃる方のために、気が早いよう
ですが、これまでに掲載した記事の、目次のようなものを掲載します。


◎ 創価学会 金満教団への道

  創価学会の金集め①

  金庫事件(金集め①-補足)

  創価学会の金集め②

  「牛乳ビンの念珠」とは?(金集め②-補足)

  創価学会の金集め③

  創価学会の財力



◎ 収奪的な金集めの手口

  財務督促あるいは〝創価学会仏〟の金口直説

  財務をすれば万札が降ってくる?

  財務に苦しめられる末端学会員

  学会幹部に良心はないのか?

  創価学会・公明党と生活保護

  公明党による口利きの代価


◎ 広宣部・教宣部と嫌がらせの実態

  広宣部と教宣部

  広宣部・教宣部が連携した嫌がらせの手口

  教宣部創設の経緯

  広宣部の実態

  「脱会者は自殺に追い込め」①

  「脱会者は自殺に追い込め」②


◎ その他

  福島源次郎氏について

  『週刊金曜日』の創価批判記事について

  憧れの池田センセイ

  創価学会とオウム真理教

  「はじめに」および2ch過去スレ

  2chスレ立て用テンプレ1~5

  2chスレ立て用テンプレ6~9


 今後も、2、3日に一度のペースで更新できればと思っています。
 よろしくお願いします。


《当ブログの方針について》
 以前2chに「日蓮と真言宗と池田大作」と題して書き込んだ拙文を読んでいただければ、
理解してもらえると思うのですが、日蓮遺文の引用は、創価学会は彼らが主張しているよ
うな「唯一の正しい宗教」などではないことを論証するために、有効な手段です。

 一方、古文を読むのは煩わしい、という方も少なくないのも事実です。
 こうした事情を勘案し、日蓮遺文等の古文を多めに引用する記事を投稿する際には、冒
頭にその旨の但し書きを載せたいと思います。

 そのような記事は、そんなに多くはならない予定ですが、創価学会の宗教的正統性に疑
問を呈すこと、言い換えれば、創価学会がその教義からしてインチキ宗教であると暴くこ
とも、当ブログの目的の一つなので、まったくなしという訳にもいきません。

 ご了承ください。


2017年4月4日火曜日

「脱会者は自殺に追い込め」②

 芸能人に創価学会員が多いことはよく知られているが、創価学会が日蓮正宗から破門さ
れた当時、脱会して日蓮正宗の信徒となった元学会員に対する嫌がらせは、芸能界にも及
んだことを、女優の杉田かおる氏が著書で明かしている。

 杉田氏は、先に日蓮正宗の信徒となり、その後、彼女が正宗信徒であることを知った学
会員から勧誘されて創価学会にも入った。一時期、学会の広告塔にもなっていたが、破門
に際しては当初からの信仰、日蓮正宗を選んだ。杉田氏の著書には、創価学会を脱会した
芸能人がどんな目にあわされたかが記されている。


>  わたしよりも少し前に、わたしと仲がよかった、年齢も近い女優のK・Uが、やは
> り教団をやめていた。彼女は、やめたらどのような目にあわされるか、だいたい想像
> がついていたので、そのころ、ハリウッドでの仕事が入っていたこともあり、日本か
> らなるべく離れて、日本とロサンゼルスを往復する生活をしていた。
>  ロスにいたある日、仕事の関係者に自宅へ招待されたので、仕事の話に決まってい
> るだろうと疑いもしないで、出かけていった。ところが、そこで待ちうけていたのは、
> 教団の海外支部の人たちだった。気がついたときはときすでに遅く、軟禁状態にされ
> て、半日以上も、「なんで教団をやめたんだ」「戻ってこい」と説得されて、ひどく
> 怖かったと教えてくれた。わたしは同じめにはあいたくないと思った。
>  また、とくに有名人でもなんでもなくて、ふつうの人々も退会によって、意地悪を
> されていた。狭い地域で、地域ぐるみで入会していたような場合は、地域社会から完
> 全に仲間はずれにされる人もいたほどだ。
 (杉田かおる著『杉田』より引用)


 同書には、脱会者に対する酷い嫌がらせの実情を知った杉田氏が、生命の危険を感じ、
身を守るための対応策をとったことが記されている。


>  あの緊迫した空気は、いくら説明してもわかってはもらえないかもしれない。おお
> げさでも被害妄想でもなくて、死という言葉が頭をかすめるようなところまで自分を
> 追い込んでしまうのだ。実際に、教団の周辺でわたし以外にもそんなめにあっている
> 人たちを、わたしは知っている。
 (中略)
>  わたしの場合は、それまでに失敗だらけだった。だから、その自分自身を反面教師
> にして、失敗を回避できるように、頭を使うことにしたのだ。
>  黒幕氏と訣別したあと、わたしはテレビの仕事を増やした。番組の内容を問わず、
> 依頼があったものはすべて引き受けた。
>  それは自分なりに身を守る方法だった。テレビに姿をさらすということは、人目に
> つくということだ。人目についているということは、身を守る最上の方法だと思う。
> 誰かが抹殺しようとしても、そう簡単に手は出せないはずだ。


 杉田氏は、自信が経験した嫌がらせ被害については、詳述を避けているものの、同書に
は学会員から脅迫された事実は述べられている。


>  「裏切り者のおまえは、魔だ。地獄に落ちるぞ」とも、心ない信者から脅された。
> 「地獄に落ちるぞ」という脅しは、最高指導者のスピーチにもよく出てきた。「地獄」
> といえば、いかにも仏教の世界のようであるが、真の仏教者は、地獄をそんな脅しに
> は決して使わないと思う。最高指導者が「地獄に落ちるぞ」というのは、やくざの世
> 界なら組長が、「足抜けできないぞ」と脅すようなものだろうか。

 ※ 引用中の「最高指導者」とは、創価学会の最高指導者、つまり池田大作のことであ
  る。


 卒爾ながら、私も学会員から「お前のような奴は地獄に堕ちる」と言われたことがある。
私自身は過去に学会員であったことはないが、連中からしつこい勧誘(彼らの言葉でいえ
ば「折伏」)を受けたことは何度かある。

 その際に、法華経に説かれていることと創価学会の教義が矛盾していることを指摘し、
論破したところ、「地獄に堕ちる」と言われた。

 それに対し、私も「法華経の譬喩品には、法華経を否定する者は無間地獄に堕ちると説
かれている。おまエラが言うように法華経が唯一真実の教えならば、地獄に堕ちるのは、
『南無妙法蓮華経』と唱えているくせに、その妙法蓮華経と矛盾した教義を信奉するおま
エラ学会員の方だ」と言いかえしたが、その後、逆恨みしたその学会員から嘘八百を言い
ふらされて、だいぶ不愉快な思いをさせられた。

 創価学会の教義は支離滅裂で、完全に破綻しているので、議論で学会員を言い負かすこ
とは簡単だが、奴らは卑怯な手で仕返しをしてくることが多いので、議論になど応じず、
最初から関わらない方が無難である。

 なお、創価学会の教義の矛盾点についても、そのうち当ブログで論じる予定である。
 脱線してしまったが、本題の破門直後の脱会者への嫌がらせについての記述に戻る。


 たいていの創価学会員は、家族ぐるみで入信しているわけであるが、破門直後には家族
の間でも、創価学会につくか、日蓮正宗につくかで、意見が分かれることもあった。

 創価学会は、そうした悲劇的状況をも利用して、創価学会から脱会すれば、親族と争わ
ざるを得ない状況を作りだし、脱会を防ごうと画策した。

 ジャーナリスト・永島雪夫氏の著書『創価学会池田王国の崩壊』に記されている、当時、
公明党の福井県議会議員で、創価学会員でもあった田賀一成氏の事例が、学会のやり方の
非道さをよく物語っているので紹介したい。

 この事例は、県議会議員という公職にあった人物が、実名を明かしているという点でも
重要なものである。

 田賀氏は、創価学会と日蓮正宗との対立が決定的になった際、日蓮正宗につくことを決
めていたが、できるだけ穏健な形を取ることを望んでいた。しかし、学会幹部から人倫に
もとる要求を受け、早々に脱会することにしたという。

 その一連の経緯が、平成4年(1992年)3月、何者かによって怪文書にされ、ばらまか
れた。当該文書の一部を『創価学会池田王国の崩壊』から引用する。


>  学会を脱会するという田賀さんの意思は固まっていたが、静かな形で学会を離れた
> いとの姿勢を崩さなかった。このため早くても7月の参院選後、できれば任期いっぱ
> い務めあげて、学会員への影響のない状況を選んで脱会するという考えでいた。
>  ところが、次女の千代子さん(28歳)が昨年暮れに脱会したのとあわせて、田賀さ
> ん一家への嫌がらせが激しくなった。ついに2月下旬には、森岡副会長ら県大幹部は、
> 池田文化会館に田賀さんを呼びつけた。つるしあげるような形で、
> [1]日顕の悪口を言って歩くことが君の役目だ。ただちに実行せよ
> [2]脱会した者が自殺するまで追い詰めろ、それが池田先生の指令だ――
>  などと強烈に詰め寄ったという。
>  これに対して田賀さんは、猊下への悪口は絶対に言えないと断った後、『脱会した
> 娘(千代子さん)をまず自殺に追いつめろということですか』と、聞き直したところ、
> 県大幹部らは『そのとおりだよ』と、よどみなく答えたという。

 ※ 文中の日顕とは、創価学会を破門した日蓮正宗法主・阿部日顕氏のことである。


 この文書を入手した永島氏が、田賀氏に脱会のいきさつを取材したところ、上記引用の
内容は、ほぼ事実だった。しかも脱会後、田賀氏のもとには脅迫電話が相次いだという。

 創価学会の副会長という要職にある者が、子の親に対して、その娘を「自殺に追い込め」
と迫ったというのである。人として言ってはならない言葉だが、それを宗教法人の幹部が
言ったというのであるから、絶句するより他ない。

 この一事だけをもって、創価学会は仏教でも何でもなく、ただのカルト邪教だと断じて
も過言ではあるまい。

 日本国憲法第20条は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と規定してい
る。また、同条第二項は、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加すること
を強制されない」と規定してる。

 特定の宗教の信者であることを強制されないことも、憲法が保障する「信教の自由」の
一部なのである。創価学会が行っている、脱会者や勧誘に応じない者への嫌がらせは、絶
対的自由として尊重されるべき個人の内面の問題である、信仰の選択に対する許されざる
侵害である。

 創価学会は、法曹界やマスコミにも広く深く浸透し、彼らが行っている非道な嫌がらせ
が表沙汰にならないようにしているが、これだけ広範な人権侵害を隠し通すことなど不可
能である。

 創価学会のような邪悪な人権侵害集団には、いつか必ず裁きが下されると私は確信して
いる。その日が少しでも早くくるように、我が身の微力は重々承知しているが、これから
も声を上げ続けたいと思う。

2017年4月2日日曜日

「脱会者は自殺に追い込め」①

 創価学会は、彼らにとって不都合な相手を、一方的に「仏敵」と決めつけ、組織的に人
権侵害そのものと言える嫌がらせを行ってきた。そうした嫌がらせ被害の中でも、信憑性
の高い証言が多いのは、創価学会が日蓮正宗から破門された直後の時期に行われた、脱会
して日蓮正宗に移った者に対する嫌がらせである。

 元公明党委員長・矢野絢也氏が、宗教学者・島田裕巳氏との共著『創価学会もうひとつ
のニッポン』で、その凄まじさを述べている。


>  脱講運動といいまして、学会を脱退して「講」、つまり大石寺へ行った人をもうい
> っぺん学会に取り戻す。学会の幹部や地域では名の売れている公明党の議員OBなど
> が、一生懸命脱講を働きかけました。お寺を監視していると、学会を辞めた人間がわ
> かるわけです。
> 「あいつお寺へ行きよった」となると、直ちにその人のところへ行く。これは、すさ
> まじかったですよ。僕なんかは、去っていったものは追ってもしようがないと思うわ
> けです。が、違うんですね、見せしめ、他の会員に対する見せしめとして、学会を裏
> 切ったらこんな目に遭うぞということを思い知らせる。


 この頃はまだ、創価学会の嫌がらせも、現在と違って手口が粗雑であり、明白に「学会
員による嫌がらせ」と断定できるものが多かった。また、現在と違ってインターネットも
なく、被害を受けた個人がそれを情報発信することが困難だった。

 現在の創価学会が、以前述べたような、被害者がありのままに被害の実態を述べても、
心を病んだ者の被害妄想と区別しにくいような陰湿なやり口をとるようになったのは、イ
ンターネットの普及により、誰もが自らの経験を広く社会に向けて発信できるようになっ
たことが、背景にあると考えられる。

 創価学会としても、被害者のナマの証言が説得力のある形でネット上に出回り、批判の
矛先を向けられることは避けたかったのであろう。

 ネット上で見られる創価学会による「集団ストーカー」被害の訴えの中には、非現実的、
被害妄想的なものも時としてある。これは私見だが、そうした書き込みの中には、実際に
心を病んだ者によるものもあるであろうが、創価学会側が「火消し」の意味で、病的・妄
想的な書き込みを、偽装工作として行っている例も少なくないのではないかと疑っている。

 創価学会による嫌がらせのすべてが、〝精神疾患による被害妄想〟に過ぎないと、世間
一般に印象づけることができれば誰が利益を受けるかを考えれば、あながち有り得ないこ
とではないと御理解いただけることと思う。

 さて、脱会者に対する嫌がらせの詳細についてであるが、古川利明著『シンジケートと
しての創価学会=公明党』に『週刊文春』が実施した調査結果転載されているので、孫引
きになるが、そこから引用する。


>  この脱会者に対する嫌がらせは、数限りなくあるが、特に顕著だったのは、一九九
> 一年十一月、宗門が創価学会を破門処分にしたことで、大量の脱会者が出て、日蓮正
> 宗の側に回ったため、池田が「脱会者は地獄に落とせ(『自殺に追い込め』だったと
> いう説もある)」と号令をかけたことで、執拗、陰湿ないやがらせを組織的に行った
> ケースである。
>  これは『週刊文春』九五年十二月十四日号が「創価学会脱会者3300人大調査」
> で詳しく報じているので、そこから引用するが、有効回答者の約七割が「創価学会関
> 係者と思われる人物から、何らかのいやがらせを受けたことがありますか」との質問
> に、「ある」と回答。
 (中略)
>  その内容を具体的にみると、次に様なものがある。
>  「玄関を開けないとトイレを貸せと言って上がり込み、帰らない。娘が学校から帰
> るのを待ち伏せしていて、一緒に入り込むこともあった。家のフェンスを学会男子部
> が乗り越え、カーテンの隙間から中を覗いていた。外で待っている車には婦人部員が
> いた」(面談強要、監視)
>  「脱会後一カ月してから自宅に無言電話。二週間後、今度は事務所にかかってきた。
> 放っておくと、一日三百本もかかってくるようになった」(無言電話)
>  「電話に雑音が入っているので電話局に言って調べてもらうと、家の外壁のボック
> スの中に盗聴器が仕掛けてあった。犯人は分からないが、当時は学会男子部によって
> 尾行されたり、二階の窓ガラスが石で投げられて壊されたりしましたので、学会関係
> 者の仕業と考えています」(盗聴、尾行、器物損壊)
>  「九三年十二月、私の車を尾行していた車の若い男と話すと、学会員であることを
> 認めた。警察に通報すると、相手もどこかへ電話をかけた。私が代わると、電話口に
> 出たのは学会の支部長だった。到着した警官は、『組織上部の指示で動いているよう
> ですから、止めるように注意しておきます』と言っていた」(尾行)
>  「脱会後、玄関前にとぐろをまいた人糞と思われる便が大量にあった」「尻を拭い
> たと思われる紙も捨ててあった」(汚物投棄)


 こうした嫌がらせのターゲットは、しばらく前までは創価学会員であった人たちで、実
行犯である学会員にとっても、元は仲間だったはずである。

 創価学会は元々、日蓮正宗の在家信者団体であり、「我々は七百年の歴史ある日蓮正宗
の信者であり、新興宗教とは違う」とか「日蓮正宗の総本山大石寺の大御本尊は、日蓮大
聖人が遺した唯一絶対の信仰対象」と主張していた。

 そうした経緯があるにも関わらず、創価学会や池田大作がそれまで言っていたことを忠
実に信じて、日蓮正宗の信者であり続けることを選んだ人々に対し、学会員は引用にある
ような、酷い嫌がらせを行ったのだ。

 また、嫌がらせ実行犯は、個人的な怨恨があったから嫌がらせをしたわけではない。池
田大作の指示に従えば、〝功徳〟があり、ご利益があると信じたから、嫌がらせをしたの
である。

 破門に際して創価学会に残った人々の少なからずが、池田大作を崇め奉り、学会にとっ
て都合が悪い相手に嫌がらせすることが〝功徳〟になると信じて、非常識きわまりない行
動を実際にとるような、頭がおかしい連中であったのだ。

 このような異常な集団を、カルトと呼ばずして他にどんな呼び方があるだろうか。そし
て、この異常なカルトが、現状では日本最大の新興宗教であり、公明党という政権与党ま
で擁している。暗澹とせざるを得ない現実である。



補足 創価学会破門についての私見

 破門の経緯については、日蓮正宗が公表している破門通告書に記されている。

 私の個人的意見を言わせてもらうと、日蓮正宗は、日蓮遺文もしくはそうだと称する偽
書に得手勝手な解釈を施して、その総本山大石寺の法主を、生き仏のように祭り上げてい
る変な宗教にしか見えないし、創価学会は、その日蓮正宗の教義を借用して、池田大作の
ような常軌を逸した俗物を、生き仏のように崇め奉っている狂ったカルトとしか思えない。

 だが、創価学会が破門に至った経緯については、日蓮正宗側に理があると考えている。

 破門通告書にあるように、創価学会は宗教法人となるに際して、日蓮正宗側と「『①折
伏した人は信徒として各寺院に所属させること、②当山の教義を守ること、③三宝(仏法
僧)を守ること』との三原則の遵守を確約した」にもかかわらず、約束を守らなかったし、
このような約束があったこと自体、一般の学会員には知らせないようにしていた。

 しかも、池田大作は、日蓮正宗の軒を借り、その宗教的権威を最大限利用する形で創価
学会の信者を増やして、日蓮正宗の信者の大半が創価学会員でもあるという状況を作りだ
し、一方で学会内に自らへの個人崇拝を徐々に定着させて、最終的に日蓮正宗という母屋
を乗っ取ろうと企てた。

 池田大作のようなロクでない俗物が、〝総本山大石寺の大御本尊〟と同等以上の絶対的
権威として存在することは、日蓮正宗側から見れば容認できないことであり、創価学会が
破門されたのは、当然の帰結だと思える。

 破門当時の大石寺法主・阿部日顕氏の宗教家としての資質が如何ほどのものかまでは、
私には判断できないが、創価学会破門については、客観的に見ても大英断だったと言える
のではないだろうか。

2017年4月1日土曜日

広宣部の実態

 今回は、創価学会による数々の非公然活動の実行部隊、広宣部について述べる。この部
隊は、学会にとって都合が悪い、あるいは何らかのトラブルで敵視された人々を「仏敵」
と呼び、監視や嫌がらせの標的にしている。

 元公明党委員長・矢野絢也氏の著書、『黒い手帳 創価学会「日本占領計画」の全記録』
によると、広宣部は昭和63年(1988年)、創価学会と対立する宗教団体・顕正会の実態把
握を目的として、当時、顕正会本部があった東京都板橋区の、学会男子部幹部が創設した
という。

 その活動について、現在、学会の主任副会長である谷川佳樹氏らに報告したところ、谷
川氏はこれを高く評価し、広宣部は全国的な組織となった。

 平成3年(1991年)、学会が日蓮正宗から破門されると、広宣部の主要な標的は、顕正
会から日蓮正宗へとシフトしたという。

 前回、ジャーナリスト・野田峯雄氏の著書『わが池田大作バッシング』から、教宣部の
内部文書について引用したが、同書には広宣部についても、以下のように記述されている。 


>  さらに、彼らは「教宣部」以前に「広宣部」と名付けた秘密謀略部隊を全国に配置
> していた。たとえば、これは「広宣部」のほんの端っこの一例に過ぎないが、九四年
> に大阪市の創価学会東住吉東本部の幹部たちに配布された文書「勇気のエンジン大作
> 戦」をみてみよう。それによれば、彼らは次のような行動チームを編成しているとい
> う。
> ①FOCUSチーム=僧侶やその妻たちをつけまわすネタ取材班。
> ②特攻野郎Sチーム=男子部の特殊潜行活動班、別名「鉄砲玉」。
> ③ワイフ・キャッチャー・チーム=婦人部の追っかけイヤガラセ班。
> ④四条金吾チーム=壮年部の特別抗議行動班、別名「893(やくざ)部隊」。
> ⑤十羅刹女チーム=婦人部の電話抗議行動班、別名「極道の妻たち」。
> ⑥パトリオットミサイルチーム=寺からくる郵便物の回収作業班。
> ⑦ナポレオン・グループ=不可能を可能にする唱題会。別名「わら人形グループ」
> (わら人形を五寸釘で打ち付ける呪い)。

>  最後に次のような注が付されていた。
> 「以上、本部・支部・地区のビクトリー責任者が核となって行動します」


 どうも頭が悪い人が中二病をこじらせたようなネーミングセンスで、失笑を禁じえない
が、信じがたいことに、この文書はいい年をしたオジサンたちが、真剣に作成したものな
のだ。

 この文書で取り上げられている嫌がらせ等の標的は、日蓮正宗の寺院・僧侶であるが、
こうした悪意に満ちた活動に、創価学会は組織ぐるみで邁進していた。狂気の沙汰である。

 たちの悪いことに学会員たちは、このような反社会的活動を、正義の行いと信じている。
上記だけ見ると、いかにも稚拙で笑うべき連中と思われるかもしれないが、野田氏は、別
の著書『増補新版 池田大作 金脈の研究』で、学会員が関与した「交通事故死」について
も述べている。

 同書で取り上げられてる2件の交通事故は、いずれも平成6年(1994年)、北海道で起
こり、被害者はそれぞれ、日蓮正宗の僧侶と信徒、加害者側に創価学会員が関与している。

 1件目の事例の被害者は、室蘭市の日蓮正宗深妙寺の住職・大橋信明氏で、国道を乗用
車で走行中に2トントラックと激突、死亡した。警察は、大橋氏がセンターラインを超え
て、対向車線にはみ出したことが事故原因とした。

 しかし、この事故の相手方のドライバーが熱心な学会員だった他、一般人はまだ誰も知
らないはずの事故直後、「号外 遂に日蓮正宗天罰下る! 室蘭 大橋住職交通事故死!」
などと書かれたビラが撒かれるなど不審な点が多かった。

 また、大橋住職は日頃から、学会員から監視や嫌がらせを受けていたという。同書には、
大橋住職の知人の話として、次のように述べられている。


> 「当時、学会員の攻撃がものすごく、日本全国で、私たち日蓮正宗の信徒や末寺の住
> 職に対する監視、尾行、盗聴、執拗な訪問、ののしり、脅迫、ビラによる誹謗中傷、
> 車による追跡と追突、暴行、放火などが頻発していました……私はあのとき大橋住職
> が何者かに激しく追われ、必死で逃げ、〝問題のポイント〟にさしかかったのだと確
> 信しています」
>  しかし、警察は大橋住職の非による交通事故として処理してしまったようなのだ。


 2件目の被害者は、札幌市の日蓮正宗信徒、富岡孝一氏と對島妙子氏である。二人は札
幌市内の聞仏寺所属の法華講幹部で、講の会議の帰りにワゴン車で走行中、トレーラーに
突っ込まれ死亡した。

 なお、助手席に乗っていた富岡氏の妻は、重傷を負ったが、一命はとりとめたという。
この事故も不審な点が多い。以下、前掲書から引用する。


>  富岡さんの家の者は学会員にしょっちゅう尾行されたり、いたずれ電話をかけられ
> たりしていて、事故の前日と当日も黒っぽいセダンに監視されていたという。
> 「現場に立てばすぐわかりますよ、見通しはいいし……トレーラー車の激突のしかた
> があまりにも不自然だと」
>  札幌市内の日蓮正宗の寺の住職はそう話す。
>  で、富岡さんの仲間がトレーラー車の運転手周辺を調べたところ――本人は学会員
> であることを否定。学会員であることを示す客観的な証拠もなかった。
>  しかし、彼の勤務先(運送会社)の社長がここ札幌ではかなり有力な学会員だと判
> 明した。同社長は学会員運送業者のつくっているグループの中心メンバーで、そのグ
> ループの名簿にちゃんと名前を載せている。
> 「しかも、こんなことになっていたんです――運転手の住んでいるアパートの真下の
> 部屋には、洗脳(マインド・コントロール)上手として知られている学会青年部の活
> 動家がいました。この男は尾行や嫌がらせなどを行なうビクトリーグループと名付け
> た組織のリーダー格です。彼の部屋ではしょっちゅう会合が開かれていた……そうい
> えば、オウムにもビクトリーという名の裏工作部隊がありましたねェ」
>  と、日蓮正宗の寺の住職(前出)はいってタメ息をついた。
>  室蘭の事故といい札幌の事故といい、なぜ、こんなに創価学会員がからんでいるの
> だろうか? 偶然にしては重なり過ぎている。


 両事例とも不気味で、不審に感じられるが、公的には二件とも「交通事故」として処理
されたという。これらは、本当に事故なのかもしれないが、事故にみせかけた犯罪ではな
いかとの疑念を払拭できない。

 交通事故に見せかけることを意図した嫌がらせ被害について、元学会の中堅幹部・小多
仁伯氏も、『池田大作の品格 PARTⅡ』で、自家用車のタイヤに細工された事件について
述べている。


>  警察とJAFに来てもらい、現場検証してもらいました。それによると、通常よく
> ある「愉快犯」が千枚通しのような鋭いもので一気にタイヤに穴を開けるやり方では
> なく、タイヤに数センチの長さのネジを差し込み、更に空気穴にも細工を施していま
> した。私が高速道路を走行する際、スピンして事故を起こさせる狙いではないかと想
> 像できたのです。
>  JAFの整備工がいうには、「過去のいろいろな修理や事故を処理してきたが、こ
> れほど悪質で程度の悪いのは初めてです」ということでした。


 小多仁氏は、広宣部と思われる者たちから、日常的に監視や尾行を受けており、この事
件も広宣部によるものである可能性は高い。

 小多仁氏と同様に創価学会を脱会し、批判者に転じた矢野絢也氏や山崎正友氏も、命の
危険を感じるような嫌がらせ被害を受けていたという。

 こうした被害が現実に生じていることは大問題であるが、いずれも犯人を特定したり、
犯罪を立証することが困難な手口ばかりで、その周到さには戦慄せざるを得ない。

 このような、きわめて巧妙な手口で狙われた場合、市井の民間人には、対処することは
難しいと思われる。

 個人的には、刑事事件として捜査対象になるリスクを冒してまで、学会にとって脅威に
ならない一般人の標的――上述した日蓮正宗関係者や、脱会して批判者に転じた元幹部を
除く「仏敵」――に対して、身体的危害を加えるような嫌がらせをする可能性は低いので
はないかと思うが、学会員には他人を苦しめて喜ぶクズも多い。

 まして、教宣部・広宣部に所属するような連中はなおさらそうだろう。現在被害を受け
ている人は、くれぐれも警戒を怠らないでほしい。

 また、今まで創価学会と関わらずに生きてこられた幸運な方にも、彼らが邪悪なカルト
であることを御理解いただき、被害を受けている人間の辛さを察してほしいと思う。

 そして創価学会の危険性について、親しい人に注意喚起してほしい。創価学会は日本最
大のカルト教団であり、学会員はいたるところにいる。あなたやあなたの大切な人が、些
細なことで奴らから逆恨みされ、次の標的にされるリスクも決してゼロではないのだから。