2017年4月18日火曜日

私説「五重相対」(創価学会の矛盾)②

 ※ 承前《私説「五重相対」

3、創価学会と漢訳法華経の相対(日蓮の矛盾)

  日蓮は、仏法が滅びる末法にあっては、最も優れた経典である法華経に帰依しなけれ
 ば救われない説き、他の経典に依拠している宗派を「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律
 国賊」などと否定した。

  しかし、法華経と日蓮の教えが、完全に一致しているとは言えない点もある。例えば、
 「南無妙法蓮華経」という文言は、実は法華経にはない。

  日蓮は『守護国家論』や『法華経題目抄』で、法華経の陀羅尼品に「汝等但能く法華
 の名を受持せん者を擁護せんすら福量るべからず」とあることを、題目を唱える根拠と
 して挙げている。これも一つの解釈ではあろう。

  だが、法華経には他にも様々な教えが説かれている。
  例えば、方便品には以下の記述がある。


> 若し、人、散乱の心にて 塔廟の中に入りて
> 一たび南無仏と称えば 皆、已に仏道を成ぜり
 (岩波文庫『法華経(上)』より引用)

  また、薬王菩薩本事品には、こう説かれている。

> 若し女人有りて、この経典を聞きて、説の如く修行せば、
> ここにおいて命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の、
> 大菩薩に囲遶せらるる住処に往きて、蓮華の中の宝座の上に生れん。
 (岩波文庫『法華経(下)』より引用)

 ※ 法華経が重要な経典とみなされた理由の一つは、それ以前に作られた経典に説かれ
  た「女性は成仏できない」という考え方を打ち消し、誰もが仏になれると説いている
  ことである。

 
  この方便品と薬王菩薩品の記述から、「南無阿弥陀仏」と唱えることにより、浄土へ
 の往生を願うという解釈も可能である。実際、日本に現存する念仏系の伝統宗派四宗の
 うち融通念仏宗は、法華経を依経として「南無阿弥陀仏」を唱える。

  日蓮は、法華経の実践法として、「日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智を
 きらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし」(『報恩抄』)と、専修唱題
 を説いたが、これが唯一の正しい解釈とは言い難い。

  私は、日蓮の解釈を否定しようとは思わないが、「念仏無間」などという独善的な主
 張には同意できない。

  もう一つの明らかな矛盾は、創価学会でも重視されている、『開目抄』の「一念三千
 の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」という主張である。

  「一念三千」とは、天台大師が法華経の方便品に記述に、独自の解釈を加えて主張し
 た教義であり、寿量品にはそのような記述はない。

  日蓮は、自分なりの宗教的な確信をもって、このような主張をしたのであろうし、そ
 の日蓮の確信に自身の信仰心を重ねることも、個人の内面における選択としてならば、
 尊重されるべきであろう。

  だが、実際には寿量品のどこにも書いてないことを、「寿量品の文の底にしづめたり」
 というのは、客観的に見れば〝根拠のない決めつけ〟であり、説得力のある主張とは言
 い難い。 

  創価学会員が日蓮の教えを信仰するのは自由だが、他の宗教をすべて「邪教」と決め
 つけ、強引な折伏で信仰を押しつけようとするのは、迷惑行為でしかない。

  日蓮もまた一人の人間であり、時として間違うこともあれば、後世における学問の進
 歩により、その主張の説得力が失われることもあるという事実を、学会員にも直視して
 ほしいものである。
 


補足(後半は蛇足) 南無妙法蓮華経も念仏か?

 日蓮遺文の一つ『諸法実相抄』に、「妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ」との記述
がある。この解釈によるならば、「南無妙法蓮華経」の題目も「南無仏」であり、念仏の
一種と言えるだろう。

 「日蓮はなかねどもなみだひまなし」の有名な一節で知られる『諸法実相抄』であるが、
残念ながら、この遺文の真蹟は現存しない。つまり、確実に日蓮が書いたものとは断定で
きない。

 真蹟のみを、その遺文の著者の思想を伝えるものとする考え方は、学問的に厳密な考証
を行うために必要だということは十分理解できるが、一抹の味気なさも感じないでもない。

 この考え方(「真蹟主義」と呼ばれる)によるならば、伝統宗派の祖師の著述の中でも、
特に広く読まれている親鸞の『歎異抄』も、本当に親鸞の思想か断定できないと言うこと
になるし、筆無精で知られる法然に至っては、その思想を論ずること自体、困難になって
しまうのではないか。

 だが、こうしたブログを運営してみると、揚げ足を取られないようにするためにも、真
蹟主義は有効な手立てだとは思うので、日蓮の思想を論ずる際には、できるだけ真蹟遺文
であるか否かに留意し、真蹟が現存しない場合は、その旨を記すようにするつもりである
(正直にいうとかなり荷が重いけれど)。

 仏教学にも歴史にもズブの素人の私だが、インターネットの普及は、情報の収集を飛躍
的に容易にし、検索するだけで、まったくの素人であっても、相当の知識を得ることを可
能にしてしまった。

 言いかえれば、たとえ素人でも杜撰なことを書けば、知的怠慢のそしりを甘受しなけれ
ばならなくなった。しかし、検索するだけなら一瞬だが、読んで理解するのにはそれなり
の時間を要する。

 言い訳がましく見えることは重々承知だが、当ブログの更新が滞ることがあった際には、
このような自己弁護を私がしていたことを思い出していただき、ご寛恕いただけると幸甚
である。