2017年4月30日日曜日

創価学会は仏教ではない②

 仏教の開祖である釈尊は、死後については「無記」つまり一切述べなかったとされる。
 しかし、古代のインドでは、生前の行いに応じて天界や地獄などに生まれ変わるという
輪廻転生が信じられており、仏教にもこの思想が「六道輪廻」として取り入れられた。

 仏教は、修行により悟りを開き、輪廻からの解脱をめざすものとして、受け入れられて
いったのである。後に、在俗の信者を重視する大乗仏教が発展すると、生きている間では
なく、死後に浄土に往生して修行するという考え方が生まれ、広がった。

 鎌倉時代に大衆化していった日本の伝統仏教も、大半はこうした考え方をとっている。
法華経も浄土への往生を説いており、日蓮もこの教えに基づいた信仰を説いた。

 一方、創価学会には、第二代会長・戸田城聖が提唱した「生命論」という独自の教義が
あり、「成仏」について、極めて特異な考え方がなされている。以下に『折伏経典』から、
生命論について述べられた一節を引用する。


>  成仏とは永遠の幸福を獲得するということである。われわれの生命というものは、
> この世かぎりのものでは絶対ない。永遠に生きるものである。永遠に生きるのに生ま
> れてくるたびに、草や木や犬やネコや、または、人となっては貧乏・病気・孤独・バ
> カ等の生活を繰り返すことは、考えてみてもとうてい忍びえないことである。
>  成仏の境涯をいえば、いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生まれて
> きた使命のうえに、思うがままに活動して、その所期の目的を達し、だれにもこわす
> ことのできない福運をもってくる。このような生活が、何十回、何百回、何千回、何
> 億万回と楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活
> を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、かわいそうというよりほかにな
> い。


 創価学会のいう「成仏の境涯」とは、何度も生まれてきて幸福な生活を「何千回、何億
万回と」繰り返すことなのだという。彼らのいう「幸福生活」がいかなるものかも、同書
には述べられている。


>  われわれの生命がこの世だけでないから、宗教をヤカマシクいうのであります。来
> 世に生まれてくるとき、また四畳半へ生まれてきて、汚い着物を着て、年頃になって
> も満足な福運もなく、一生貧乏で暮らしたり、病気で暮らしたりするのは嫌でありま
> す。生まれ落ちると、女中さんが三十人もついて、婆やが五人もいて、年頃になれば、
> 優秀なる大学の卒業生として、お嫁さんは向こうから飛びついてきて、良い子供を生
> んで立派な暮らしをして、死んでいかなければなりません。その来世の幸福を願うが
> ゆえに、いま信仰するのであります。今生もよくなければ来世がいいという証拠には
> なりません。今生において幸せになるがゆえに、来世のことも仏の仰せどおり、確信
> できるのであります。安心して信心を続ければ、今生において必ず証拠が出るのであ
> ります。


 創価学会が提示する「幸福な生活」のイメージは、「生まれ落ちると、女中さんが三十
人もついて、婆やが五人もいて、年頃になれば、優秀なる大学の卒業生として、お嫁さん
は向こうから飛びついてきて、良い子供を生んで立派な暮らしを」するという、極めて即
物的なものである。

 経済的な豊かさを求めることが悪いとは言わないが、何度も輪廻して、その度に煩悩を
充足させる生活を繰り返すことが、「成仏の境涯」だという主張には、強烈な違和感を禁
じえない。

 釈尊は、王族に生まれながら、恵まれた生活をなげうって出家し、修行して悟りを開き
仏となった。創価学会のいう「成仏の境涯」は、仏教の目指す悟りの境地とは、まったく
似ても似つかないものである。

 多くの伝統宗派では、現世で煩悩を断って悟ることは難しいので、浄土に往生すること
により、来世で成仏するという信仰がなされる。ここでは、その代表的な考え方を示すも
のとして、日蓮の同時代人であり、日蓮が口を極めて批判した法然の弟子でもある、親鸞
の『歎異抄』を引く。


>  煩悩具足の身をもて、すでにさとりを開くといふこと。この条、もてのほかのこと
> にさふらふ。 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法
> 華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな、難行上根のつとめ、観念成就のさ
> とりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。これまた易
> 行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生にをいては煩悩・悪障を断ぜんこ
> と、極めてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをい
> のる。


 親鸞は、「真言法華を行ずる浄侶」なおもって、来世での悟りを祈るのだから、「煩悩
具足の身」ならば、なおさらのことだと主張している。

 では「法華経の行者」をもって自任していた日蓮はどうだったのだろうか。以下に日蓮
遺文から、日蓮が自分の死後について、端的に述べている箇所を示す。


>  さて最後には日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・
> 正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候ひけれと、さしきりて教主釈尊に申し上げ候はん
> ずるぞ。
(『種種御振舞御書』より引用)

 ※ この遺文は、日蓮が斬首されそうになった、竜の口の法難について述べている。引
  用した一節は、刑場(竜の口)に連行される日蓮が、八幡宮の前で叫んだ言葉である。
   日蓮はこの後「月のごとくひかりたる物」が現われ、「太刀取目くらみたふれ臥し」
  たと述べている。そのため、斬首は沙汰止みになったという。
   実際にそのような奇蹟があったかは定かではないが……。


 日蓮は、自分が死ねば、久遠実成の釈尊を教主とする霊山浄土に往生するのだと信じて
いたのである。なお、以前も述べたが、法華経は阿弥陀如来の浄土への往生を説いており、
日蓮は、極楽往生を願うのならば、「南無阿弥陀仏」と唱えるよりも「南無妙法蓮華経」
と唱えた方がよいと主張していた。

 日蓮と法然・親鸞の浄土への往生の考え方には、題目と念仏、霊山浄土と極楽浄土とい
う違いがある。だが日蓮の思想は、創価学会の生命論と比べれば、法然・親鸞の方にずっ
と近い。

 生身の人間である以上、誰しも物質的な欲望は断ちがたい。また、現在のような科学技
術や医療がない時代に、現世利益を願う信仰が求められたのは、やむを得ないことだった
と思う。

 しかし、創価学会のように、即物的なご利益がすべてで、成仏さえも欲望の充足と直結
させるのは、仏教とはあまりにも異質であり、異端的である。もっとはっきり言えば、下
品下劣である。

 『折伏経典』には、人として生まれて「バカ等の生活を繰り返すことは、考えてみても
とうてい忍びえないことである」と述べられているが、バカな教えを説き、その教えを有
難がっているバカな信者がいる宗教は、いったいどこなのか。

 仏教とは、「自ら其の意を浄む」ものであり、日蓮も説いているように「心の財第一」
とするものである。

 また、死してなお存続しつづけるような、不変の〝我〟にとらわれることを否定し、欲
望=煩悩のままに行動することを戒めるものでもある。

 創価学会は欲望を無批判に肯定し、しかも何度も転生して、その度に煩悩まみれの「幸
福生活」をすることが「成仏の境涯」などと説いているが、そんなたわけたことは、釈尊
も日蓮も言っていない。

 戸田城聖や池田大作が説く、仏教とはなんの関係もない邪義を「唯一の正統な仏法」な
どと主張する創価学会こそが、仏法や日蓮を貶める集団であることは明白である。



補足1 『人間革命』における「生命論」

 『人間革命』第四巻でも、「生命論」について詳細な解説がなされているが、『人間革
命』では「生命論」そのものだけでなく、その宣揚にもかなりの紙幅が割かれている。

 それによると、戸田城聖の「生命論」は、デカルトの『方法序説』に比肩する意義を持
つものであり、今後数百年にわたり影響力を及ぼすであろう、と述べられている。また、
「生命論」がいずれ科学的に証明されるだろう、との予測もされている。当該部分を引用
する。


>  今後、二十一世紀にむかって、生命に関するいろいろな実験が重ねられ、煩わしい
> くらいの論議が湧きおこり、さまざまな仮説も横行することであろう。そして、戸田
> の論文のある部分を科学的に実証するにいたることも、おそらくはあるであろう。彼
> の「生命論」が、真の光彩を放ちはじめるのは、その時であると確信したい。


 本稿をお読みいただければわかるとおり、「生命論」の内実は、古代インド以来の輪廻
思想と大差ないものであり、あえて新味を挙げるとすれば、煩悩まみれの「幸福生活」と
やらを「成仏の境涯」と強弁することで、仏教を貶めたことくらいである。

 また、『人間革命』第四巻の初版は昭和43年(1968年)であるが、それから半世紀近く
が経った現在でも、「生命論」の科学的実証などなされていない。戸田の「生命論」が、
「真の光彩」とやらを放つ時は、一体いつになったらくるのであろうか。私には、未来永
劫そんな日はこないとしか思えないのだが……。

 輪廻転生の科学的証明などなされるはずがないが、この思想が発生した古代インドにお
いては、社会規範に根拠を与え、秩序を正当化するイデオロギーとして、一定の役割を果
たしたことは事実であろうし、その時点での社会的要請に応えているという意味では、そ
れなりの妥当性があったと評価できる。

 しかし、20世紀半ばにもなって、古代人と大差ない主張をした戸田城聖にしても、その
戸田の珍説を『方法序説』と比肩する歴史的偉業などと宣揚した池田大作にしても、愚劣
極まりないとしか言いようがない。

 「生命論」なる珍教義は、時代錯誤で非科学的なたわ言に過ぎず、創価学会の知的水準
の低さを証明するものでしかない。


補足2 『種種御振舞御書』について

 今回引用した『種種御振舞御書』も、かつて身延山久遠寺に保管されていたが、明治の
大火で焼失した真蹟曽存である。