2017年7月16日日曜日

池田本仏論について①

 創価学会の公式の教義は「日蓮本仏論」であるが、非公式には、〝池田大作こそが現代
の本仏である〟という「池田本仏論」なる教義が存在するといわれる。

 一方で、創価学会は公的には、そのような教義などないとも主張してきた。池田大作自
身、「代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第3代会長の任に
就きましたが私などを絶対視してはならない」(『聖教新聞』昭和55年〔1980〕4月2日付)
と述べている。

 しかし、公的な建て前と本音を使い分けるのは、池田大作が得意とするところである。
 創価学会では、『聖教新聞』などの外部の眼にも触れるメディアで述べられた〝建て前〟
とは異なる〝本音〟が、上意下達の口コミで伝えられることが多い。

 元副会長の福島源次郎氏は、学会内部での口コミでの情報伝達の徹底ぶりを「世界最強」
と評している(『蘇生への選択』による)。

 池田大作は、公的な形で「私を仏として崇拝しろ」と述べた訳ではない。だが、そうと
しか解釈のしようがない表現を、創価学会内部に広めることで、池田への個人崇拝を学会
内部に定着させたのである。その実態を述べた文章を、以下に引用する。


>  また(池田大作が)「私の振る舞いが経である」とか、「私は福運の当体(そのま
> まの体)である」とか、「私と感応妙があるかどうかで信心は決まる」とか、「私が
> 行ってあげなければ福運がつかない」とかおっしゃいますので、一方でどんなに「私
> は凡夫」と建て前をいわれても、だれもが、いや「先生は仏様」と思ってしまうのも
> ムリからぬことでしょう。
>  私もかつて〝師弟感応の教学〟と叫んだ人間です。しかし、仏法上、感応妙という
> のは仏と衆生との関係をいうのです。ということは、先生を仏様として拝さなければ
> 〝師弟感応の教学〟というものは、成立いたしません。
 (原島嵩著『池田大作先生への手紙』より引用)


 このような形で「池田本仏論」が広められたのは、教祖への個人崇拝が知られると、世
間からの批判を招きかねないことや、かつての創価学会は、日蓮正宗参加の信徒団体であ
ったことから、宗門の教義である「日蓮本仏論」と矛盾する内容を、公式に主張すること
はできなかったこととの二つの理由が考えられる。

 この「池田本仏論」について、これからより詳しく論じるが、今回は「本仏」とは何か
について説明する。


1 そもそも「本仏」とは

 本仏とは、法華経に基づいた考え方である。法華経も他の経典と同じく、歴史上に実在
した釈尊が説いた教えを、弟子が書きとめたものという体裁をとっている。

 しかし、法華経の如来寿量品で釈尊は「人々は、釈迦牟尼仏は出家後に道場で修行して
悟りを得たと思っているが、実は私は成仏してから幾千億劫という歳月を経ている」と明
かす場面が描かれる。

 つまり法華経には、歴史上の釈尊と、その本体というべき永遠の命を持った仏とが登場
する。後者を「久遠実成の仏」と呼ぶ。

 法華経を根本経典とする天台宗や日蓮宗では、久遠実成の釈迦如来を本尊としているが、
「久遠実成の仏」という考え方は、他の宗派にも影響を与えている。例えば浄土真宗では、
阿弥陀如来を「久遠実成の仏」とする。

 法華経は、古来から前半を迹門、後半を本門に分けて解釈されてきた(この分け方は、
天台大師智顗によるものである)。

 如来寿量品は、本門に含まれている。そのため「久遠実成の仏」を「本門の仏」という
意味で「本仏」と呼び、歴史上の釈尊はその化身と考え「迹門の仏」という意味で「迹仏」
と呼ぶ。

 法華経で説かれる「久遠実成の仏」すなわち「本仏」は、真理そのものともいうべき存
在であり、あらゆる神仏の本体である究極の仏と考えられるようになった。
 また法華経の譬喩品では、釈尊は以下のように述べたとされている。


> 今此三界 (今、この三界は)
> 皆是我有 (皆、これ、わが有なり)
> 其中衆生 (その中の衆生は)
> 悉是吾子 (悉くこれ吾が子なり)


 仏弟子にとって、仏が「師」であることは言うまでもないが、法華経ではそれに加えて
現世は釈尊の所有するところ(所領)であるとされ、また衆生は釈尊の子とされている。

 久遠実成の釈尊は、現世に生きる衆生にとって「師」であるだけでなく、「主」であり、
「親」でもあることになる。

 この法華経の記述に基づき、主・師・親の三徳を兼ね備えていることが、本仏たる久遠
実成の釈迦如来の特性なのだと、日蓮は説いている。


>  故に法華経の第二に云はく「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是
> 吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す。復教詔す
> と雖も而も信受せず」等云云。此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり、師なり、
> 主なり。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とに
> はましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。
 (『南条兵衛七郎殿御書』(真蹟断片 若狭長源寺 外所蔵)より引用)


 以上をまとめると「本仏」とは、以下のような存在ということになる。

1.真理そのものというべき存在
2.あらゆる神仏の本体である根源の仏
3.主・師・親の三徳を備えている。

 この三点を踏まえて、次回は「池田本仏論」について検討を加えたい。



補足 「日蓮本仏論」について

 日蓮遺文には「教主釈尊」という言葉はしばしば登場するが、日蓮自身を「本仏」とし
て崇拝せよとは、どこにも書かれてない。

 『人間革命』第十二巻にも、戸田城聖の言葉として「御書のどこを拝しても、大聖人は、
私はすでに仏なのだから、みんなを救ってやろうなどとは、おっしゃっておりません」と
述べられている。

 日蓮正宗や創価学会は、〝文上では「教主釈尊」と書かれているが、文底においては日
蓮大聖人が御本仏〟などという、こじつけ解釈を日蓮遺文に加えているだけだ。

 しかも、その本仏化した日蓮の権威を借りて、大石寺法主や池田大作への個人崇拝を正
当化しているのである。

 「日蓮本仏論」は、日蓮の真意を捻じ曲げ「日蓮を悪しく敬う」邪義である。