2017年7月19日水曜日

池田本仏論について②

2 会長本仏論

 前回も一部引用したが、池田大作は昭和55年(1980年)4月2日付で『聖教新聞』に「恩
師の二十三回忌に思う」と題した文章を掲載し、池田本仏論を公式に否定した。


>  なおここで、いわゆる、“会長本仏論”について、重ねて申し上げておきたい。
 (中略)
>  創価学会の代々の会長ならびに幹部は、その意味からも、いわゆる仏法実践展開の
> 指導者であるとともに、文化、平和、社会へ仏法を展開しゆく指導者であるといえる
> のであります。
>  いうまでもありませんが、指導者と仏とは別であり、そこには、いささかたりとも
> 混同があってはなりません。
 (中略)
>  したがって、代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第3
> 代会長の任に就きましたが私などを絶対視してはならないし、かりそめにも、主師親
> の三徳とか、本門弘通の大導師といった表現を用いることは誤りであり、絶対にあっ
> てはならないことです。


 上記引用で池田大作は「創価学会の会長とは仏法実践の指導者」と述べ、「指導者と仏
とは別」なのだから「主師親の三徳といった表現を用いることは誤りであり、絶対にあっ
てはならない」と言っている。

 しかし、その「絶対にあってはならない」ことを、池田大作は他ならぬ『聖教新聞』紙
上に連載された『人間革命』でやってきたのである。

 『人間革命』第三巻に、池田大作が戸田城聖の経営する日本正学館に採用される場面が
描かれている。そこに以下の記述がある。


>  この若い革命家の「妙法への帰命」という理念は、具体的な実践でいうならば、稀
> 有の師への帰命、すなわち「戸田城聖への帰命」でなければならぬことを、彼は知っ
> たのである。

 ※ 文中の「この若い革命家」とは、池田大作(作中では「山本伸一」)のことである。


 引用中に「帰命」という言葉があるが、いかなる含意があるのだろうか。日蓮遺文中に
この語について解説した一節がある。


>  一切のかみ仏をうやまいたてまつる始めの句には、南無と申す文字ををき候なり。
> 南無と申すはいかなる事ぞと申すに、南無と申すは天竺のことばにて候。漢土・日本
> には帰命と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。
 (『白米一俵御書』(真蹟 富士大石寺所蔵)より引用)


 日蓮は「帰命」とは「我が命を仏に奉る」ことだと述べている。
 『人間革命』にある「師への帰命」という記述は、戸田城聖という「稀有の師」は、仏
と変わらない存在だと述べているに等しい。

 この『人間革命』の記述に基づき、創価学会内では「師への帰命」ということが、盛ん
にいわれるようになった。そして、その時点での「師」とは、池田大作のことである。

 また『人間革命』第五巻には、創価学会の初代会長・牧口常三郎の八回忌法要での戸田
城聖の言葉として、以下の記述がなされている。


>  縁の不思議について、お話しいたしますれば、私が北海道より苦学に東京へ出よう
> と決心しましたのは、十八、九歳の時でした。当時、下宿料は十八円で、郵便局づと
> めではどうにもならず、教員になろうと思い、紹介状をもらって先生にお目にかかり
> ました。先生は校長で私はそこの代用教員として非常に迷惑をおかけしながらも、先
> 生にかわいがっていただきました。……その時、先生は四十九、私は二十で、親であ
> り、師であり、主人と思ってまいり、牢にはいる時に、顔を見合わせて別れたきりで
> あります。


 戸田は、牧口会長のことを「親であり、師であり、主人」と述べているが、前回述べた
ように、主・師・親の三徳を備えていることが、本仏の特性である。上記引用は〝牧口会
長は本仏である〟と言っているとしか、解釈のしようがない。
 
 池田大作は、「私を仏として崇拝せよ」と公式の場で言ったことはない。だが、学会内
部で聖典同様の存在として重視されている『人間革命』を通じて〝創価学会の会長は御本
仏である〟という思想を広め、定着させたのだ。

 『人間革命』が執筆された時点での、創価学会の会長は池田大作である。つまり〝池田
会長を本仏として崇拝すべきである〟としか解釈のしようがない思想で、学会員たちを洗
脳したのである。

 その後、池田は日蓮正宗との抗争で一敗地に塗れ、名誉会長に退いた形になったが、池
田を退任させた大石寺法主・細井日達氏が死去すると再び実権を掌握し、後任の第四代以
降の会長たちが神格化されることはなかった。

 現在の創価学会会則でも「三代の会長は永遠の師匠」と謳われており、「池田先生は末
法の御本仏」と信じる学会員は多い。

 もし仮に、池田が生き仏のように敬われるにふさわしい高徳の宗教家であったならば、
創価学会がカルト呼ばわりされることもなかったであろうが、実際の池田は、その性的関
係の放埓さ、金に関しての意地汚さから明白なように、醜悪な俗物に過ぎない。

 池田大作の如き邪悪な俗物への個人崇拝を信仰の核とする創価学会が、反社会的カルト
となったことは、理の当然というべきであろう。

 創価学会の悪影響から社会を守るためには、池田大作の虚像を暴き、彼のような俗悪な
人物を崇め奉ることは、滑稽千万な愚行に過ぎないことを広く世間に知らしめていくこと
が、引き続き必要である。

 それは、洗脳され搾取されている学会員たちの覚醒を促し、彼らを救うことにもつなが
るのではないだろうか。