2018年1月28日日曜日

第四代会長・北条浩氏について

 創価学会の会則では、初代から第三代までの会長を「永遠の師匠」と定義しているが、
このうち存命中なのは第三代会長の池田大作のみであり、創価学会員たるもの、池田を疑
うことなく信じ、その指導を実践すべきだとされている。

 弟子はどこまでも師に忠実であるべきとするこの教義は、「師弟不二」という言葉で表
現され、信仰の中核に位置づけられている。

 その「師弟不二」を文字通り実践し、そのために池田大作の犠牲になった人物として、
多くの造反者が挙げるのが、第四代会長・北条浩氏である。

 北条浩氏は、戦国大名として知られる北条氏の末裔であり、旧華族出身という創価学会
では珍しい、正真正銘の貴種である。先祖代々、日蓮正宗の門徒であったことが、学会に
入ったきっかけらしい。

 北条氏は、池田が日蓮正宗との抗争に敗れて名誉会長に退いた際に、第四代会長に就任
した。この時、北条氏らの新執行部は「池田先生を永遠に師匠と仰ぎます」との誓約書を
池田に提出させられたという。

 北条氏は、温厚篤実な人柄で知られ人望があったが、池田に対しては絶対に服従してき
たことから、傀儡としてうってつけだったのだろう。北条氏の人柄について、元副会長の
福島源次郎氏はこう述べている。


>  この北条さん程「先生」に真心で仕え忠誠を尽くした人を知りません。清廉の人・
> 私心のない人・誠実な人格者でした。熱血の人であり、「先生」を守るという一点に
> 全てを賭け、泥をかぶって「先生」に献身した人です。私達は、弟子の鏡として尊敬
> してきました。
 (福島源次郎著『蘇生への選択』より引用)


 北条氏は、具体的にはどのような形で「泥をかぶって」池田に献身したのだろうか。そ
の一端をうかがわせる記事を、以下に引用する。


> 「東京・小平市に住む古くからの学会員の娘さんが、池田さんに妊娠させられたとい
> うんです。で、学会から北条さん(現会長)が二百万円持って謝りに来た。親が怒っ
> たところ三百万円上積みして、示談にして堕ろしたらしい。去年の春だっていうんで
> す。
>  立川の文化会館の三階には会長専用の部屋があって、一昨年十一月ごろから一カ月
> そこに閉じこもったことがある。実は、問題の娘さんは創価高校の二年生でグレてい
> た。で、池田センセイが〝その娘を会館によこしなさい、意見して直してあげるから〟
> といったので、両親はありがたく娘さんを会館にやった。
>  以後一カ月、娘さんは会館から通学した。その間の出来事だろう、というんですね」
>  三代目の正々堂々とした釈明がされるまで、この手の話が全国に広がるのもやむを
> えまい。いわれていることが全部本当だとしたら、三代目の〝福運〟があまねく全国
> に行きわたっていることの証明にもなろうか。
 (「週刊新潮」1980年6月19日号)


 創価学園の創立者として、学園の生徒の一人である不良少女を立ち直らせようとの池田
センセイのご指導が、如何に「福運」に満ちたものだったかを窺わせる話である。

 北条氏は創価学会のナンバー2ではあったものの、実際にやらされていた実務の中には、
こうした池田がしでかした不祥事の尻拭いも相当に含まれていたのである(その他にも共
産党へのスパイ行為や、日蓮正宗に対する謀略にも関わっていた。これらについては、別
の機会に論じたい)。

 その他にも北条氏は、池田大作への忠誠心のお手本を、一般会員に示す役割を担わされ
ていた。

 ある時、池田は自分が食べ残したうどんに、真っ赤になるくらいの唐辛子を振りかけて、
それを他の学会員の前で北条氏に食べさせた。北条氏は汗だくになりながらも、「おいし
いですね」とそれを平らげた。

 創価学会の元教学部長・原島嵩氏によると、それを見たある学会員は「何とうるわしい
師弟愛だろうか、真実の弟子はかくあらねばならぬ」と、のたまったという(『誰も書か
なかった池田大作・創価学会の真実』による)。

 私には、パワハラとか、気色悪いとしか言いようがないが……。しかもこのようなこと
は、一度だけではなかった。別の時には、食べ残したカレーに大量のコショウを振りかけ
たものを食わされたこともあったという。

 さて、池田の食べ残しを何度も食わされ、「福運」とやらをたっぷりとつけていただい
た北条氏がどうなったかというと、会長任期半ば、58歳の若さにして急死してしまったの
である。死因は心筋梗塞だった。

 次から次へと騒動をひき起こす池田大作の後始末に奔走し続け、心労が重なった挙げ句
の死だったのだろう。
 北条氏の葬儀での池田の言動を、元公明党都議・龍年光氏は次のように述べている。


>  昭和五十四年、池田の本尊模刻問題が発覚、細井日達上人の叱責を受け、破門寸前
> のところで名誉会長に退いた後、会長に立てられた北条浩は、池田に尽くし、池田の
> 悪行の尻拭いに追いまくられていた。遂に、疲労のあまりと思うが、昭和五十六年七
> 月に五十八歳で死んだ。非常に頑健な体質で、ご両親も長命だったのに……。池田の
> 最大の犠牲者だと、私は思う。
>  池袋の戸田講堂で学会葬が行なわれ、北条の徳を慕って、大勢の幹部が集まった。
>  ところが、池田はその大恩人の葬儀に遅れて来、入ってきたと思ったらいきなりマ
> イクを握り、歩きながら大声で、「暑いなぁ、暑いなぁ。こんな暑い時に死ぬのはや
> めようよ」といった。これには、みんな本当にア然としたものだ。
 (龍年光著『池田創価学会を解散させよ』より引用)


 この池田大作の没義道なふるまいについては、龍氏のみならず、多くの脱会者が非難し
ている。また、その後の遺族への仕打ちを、元公明党都議・藤原行正氏は次のように述べ
ている。


>  ところが、池田大作はその北条さんが亡くなると、その通夜と本葬で集まった一億
> 五千万円の香典、東京の戸田記念講堂で行われた本部葬、ならびに全国の会館で併行
> された葬儀で集まった約二十億円の香典のほとんどを遺族の手に渡さず、学会本部の
> 金庫へ入れた。
>  それだけではない。一家の柱を失った遺族は長年住み慣れた聖教新聞社前の和風二
> 階建ての家から即刻立ち退きを命じられた。池田大作がそう命じたのである。北条未
> 亡人はやむなく遺産をはたいて都心から離れた狭い一軒家に移り住んだ。その後、旧
> 北条宅は一億円をかけて改築され、池田名誉会長の専用施設になっている。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 創価学会で信心に励み、池田センセイとの「師弟不二」を実践し、池田から「福運」と
やらを存分につけてもらった北条氏にして、その末路はこんなものなのだ。

 創価学会で「福運」を享受しているのは、池田大作と、そのおこぼれにあずかる一部の
職業幹部だけではないのだろうか。北条氏の生涯は、まともな人生を送りたいなら、こん
なカルトとは関わるべきではない、という教訓を示唆しているように思える。