2017年5月31日水曜日

セックス&バイオレンス

 昭和33年(1958年)3月、創価学会はまたしても、日蓮正宗の僧侶へのリンチ事件を総
本山大石寺において引き起こした。

 この時は、創価学会員の寄付により建てられた法華本門大講堂が竣工し、その落慶記念
式典が催されたことから、多数の学会青年部員が大石寺に泊まりこんでいた。

 その際に青年部員たちが、大石寺の所化(いわゆる「小僧さん」)にとった態度を批判
した僧侶・的場正順氏対し、池田大作(当時、学会本部参謀室長)の指揮のもと、暴力で
応えたのである。溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』から、この事件を描いた箇所を
引用する。


>  大講堂落慶法要の際、創価学会の青年部員三、四十名が大石寺の大坊に泊まりこん
> でいた。彼らは僧の卵ともいうべき所化を、タバコを買いにやらせるなどの私用に使
> い、チップがわりに菓子を与え、ソバ代を出すなどしていた。彼らには所化とはいえ、
> 僧侶一般に対する畏敬の念はなかった。所化を指導する立場にあった的場はこれらの
> ことを見聞きし、青年部責任者・土屋某に再三にわたって注意を促した。
>  三月二十二日の夜、的場は青年部員間で、「正宗の坊主も邪宗の坊主となんら変わ
> りない。ものさえ与えればいうことを聞く」と話されているのを聞き、翌二十三日朝、
> 大石寺内の一僧房である六壺に所化と青年部員を集めて厳重な注意を与えた。
> 「大坊は一人前でない僧が法主の指南で修行する場所であって、本来が青年部員の起
> 居するところではない。教育にさわるような真似はやめてほしい」
 (中略)
>  が、この三時間後、的場は池田に呼び出されて裸にされ、近くの御塔川原に放りこ
> まれる。青年部員がかわるがわる的場に馬乗りになって的場の顔を水の中につけ、池
> 田はポケットに手を入れて見下ろしながら、指揮したという。
>  的場は事件後、被害者にもかかわらず逆に約二週間の謹慎を命じられたうえ、北海
> 道の新寺院に四年、その後、鳥取へと、地方回りの生活を余儀なくされた(『週刊文
> 春』昭和五十二年九月一日号)。宗門は創価学会の組織と財力に制圧されつくして、
> 的場の正義をバックアップすることも、その権利を回復することも長くできない状態
> にあった。


 この事件は、『人間革命』第十二巻にも取り上げられているが、例によって事実関係は
大きく捻じ曲げられている。『人間革命』の当該箇所を以下に記す。


>  三月も末に迫った日のことであった。総登山の整理役員として登山していた青年が、
> 早朝、六壺の廊下を通りかかると、一人の僧侶が、お小僧さんたちを怒鳴り散らす光
> 景に出くわした。彼らの多くは小・中学生であり、見るからにあどけない少年もいた。
>  「勤行のやり方がなってねえんだよ。いいか、だいたい。お前らはな……」
>  青年は、いたいけな少年たちを怒鳴りつける僧侶を見て、あっけにとられて立ち止
> まった。この僧侶は所化頭であった。酒を飲んでいると見え、顔は異様に赤かった。
 (中略)
>  所化頭はさんざん罵声を浴びせると、ひとかかえほどもある六壺の大きな鈴を手に
> し、一人のお小僧さんの頭に被せた。そして、その上から、鈴棒を力まかせに振り下
> ろし、打ちすえたのである。
 (中略)
>  青年たちにしてみれば、この所化頭の振る舞いはとても許すことのできない所業で
> あった。
>  伸一は、所化頭に反省を求める必要があると考え、総本山の内事部を訪ねた。内事
> 部にいた宗門の理事は、事情を聞くと、「それでは、彼を呼んで反省を促し、謝罪さ
> せましょう」と約束してくれた。しかし、所化頭は、自分の言動が問題にされている
> ことを知ると、姿を隠してしまった。だが、近くの旅館の押入に隠れているところを
> 見つけられ、やむなく六壺にやってきた。そこには、学会の青年部の幹部も二、三十
> 人ほど出向いていた。
>  所化頭は、酒の臭いをぷんぷんさせながら、憮然とした表情をしていた。学会の青
> 年たちは、日頃の所化頭の言動をあげて、その真意をたずねるとともに、反省を求め
> ようとした。
 (中略)
>  間もなく御開扉のために、日淳上人がここを通られる時間が迫っていた。青年たち
> は、御心配をおかけしてはならないとの思いから、場所を移して話し合うことにした。
>  立ち合いの僧侶と所化頭とともに、青年たちは潤井川へ向かった。河原に下りると、
> 青年たちは、また、さっきと同じ質問を発したが、所化頭は傲然として睨みつけ、や
> がて、不貞腐れたようにそっぽを向いた。
 (中略)
>  青年の一人が言った。
>  「酔っているのなら、顔を洗ってきたらどうですか」
>  所化頭は衣を脱ぐと、川に入り、顔を洗いはじめた。戻ってくるのを待って、伸一
> は込み上げる激情をこらえ、諄々と諭すように語りはじめた。
>  「(前略)あなたはお小僧さんを不当に苛めている。鈴を被せて打つなどというこ
> とは、修行でも、訓練でも、決してないはずです。暴力、暴言は、私どもとしても見
> 過ごすわけにはいきません。是非おやめください。(後略)」
>  伸一は忍耐強く、噛んで含めるように所化頭の非をただした。真心をつくしての説
> 得であった。
>  所化頭は、意固地になっていると見え、憮然とした態度を取りつづけていたが、次
> 第にうなだれていった。最後に伸一は、「あなたのことは宗門にお任せしますが、私
> たちの思いをわかってください」と言って、立ち上がった。その時、それまで押し黙
> っていた所化頭の、「すいません……」という声が、かすかに聞こえた。


 『人間革命』の記述では、暴力をふるった側の創価学会が、逆に僧侶の暴力をたしなめ
たことになっているほか、所化頭は川で顔を洗っただけということになっている。

 上記の引用には、不自然な点が多い。法主に心配をかけないよう場所を移す必要があっ
たにしても、別の建物か境内の目立たない一角に行けばよいことであり、河原に行く必然
性はないはずである。

 また、この数年前に小笠原慈聞氏に対する暴行事件を起こした当事者が、一体どの口で
「暴力、暴言は、私どもとしても見過ごすわけにはいきません。是非おやめください」な
どと言えるのだろうか。

 この事件については、元公明党都議の龍年光氏(当時は参謀として池田の部下だった)
も著書で詳述している。それによると池田大作は、的場氏が青年部に抗議したことを聞い
て激怒し、的場氏に報復制裁を加えるためだけに、わざわざ東京から大石寺(静岡県富士
宮市)に駆けつけたという。


>  的場師の指摘は、池田の最も痛いところを突いたのだ。
>  逆上した池田は、我々に対してこう宣言した。  
> 「これから所化頭の的場を徹底的にやっつける。彼は大変、素行が悪い。小僧さんを
> いじめ、煙草を買いに行かせたり使い走りをさせている。こんなことでは、これから
> 学会員の子弟は僧侶に志願しなくなってしまう。だから、断固として粛清するのだ」
>  これは事実と正反対だが、それにしても筋の通らぬ話だ。
 (中略)
>  ついに池田は、「的場の頭を冷やしてやれ!」と叫んだ。的場師は、「後で白衣や
> 襦袢を洗濯するのは大儀だから、自分で脱ぐから待て」といい、自ら帯を解き、白衣
> を畳んで石の上に置いた。すると池田は、裸になった的場師を青年部員に担ぎ上げさ
> せ、冷たい水の中に何度も押し込ませた。この時の池田の異常な形相は、これまで誰
> にも見せなかった険悪なものだった。
 (龍年光著『池田創価学会を解散させよ』より引用)


 当事者の証言からは、創価学会側が当時、参謀室長であった池田大作(『人間革命』で
は「山本伸一」)の指示のもと、僧侶に対する暴行事件を引き起こしたことは明白である。

 それを『人間革命』では恥知らずにも、池田が暴力をやめるよう説得したと書いている
のである。

 創価学会は表面的には日蓮正宗を敬いながらも、宗教法人して一定の独立性を確保する
ことで、教団の運営に日蓮正宗から口出しできないようにし、さらに小笠原慈聞氏や的場
正順氏のような反対派に対しては、直截的な暴力という実力行使により沈黙させ、宗門の
運営方針についても主導権を確立していった。

 もちろん、暴力だけで僧侶を従わせたわけではない、日蓮正宗はもともとは小宗派に過
ぎず信者が少ないことから、その寺院経営は楽ではなかった。創価学会のおかげで信徒が
増えたことは、正宗にも少なからず富をもたらした。

 また、時には単純な暴力だけではなく、謀略も用いた。
 話はやや前にさかのぼるが、創価学会は昭和26年(1951年)10月に宗教法人としての設
立届を東京都に提出した。

 本来、在家信者の団体として日蓮正宗の傘下にある創価学会が、独立した宗教法人にな
る必要などないはずである。創価学会側は〝折伏でトラブルになった際に、宗門に迷惑を
かけないため〟などと説明したが、本音は宗教ビジネスの儲けを宗門に吸い上げられるこ
とを防ぎたかったのであろう。

 創価学会は日蓮正宗僧侶に対する暴行事件を引き起こす以前から、暴力的な折伏を行っ
ており、それだけでなく、「病気が治る、金が儲かる」と、極端に現世利益にかたよった
教義解釈を前面に打ち出していることについても、日蓮正宗内部には憂慮する意見が少な
くなかった。

 こうした懸念を持った僧侶たちが、創価学会が日蓮正宗の傘下にありながらも、宗門が
運営について口出しをしにくい独立した宗教法人でもあるという、特権的な地位を手に入
れることについて、反対したのは当然であろう。

 前回述べた〝狸祭り事件〟には、こうした反対派を威圧し沈黙させる目的もあった。た
だ、宗教法人設立の届出に際しては暴力だけでなく、策略も用いられている。創価学会の
元顧問弁護士・山崎正友氏の著書から、該当する記述を引用する。


>  創価学会の宗教法人認可に当たっても、日蓮正宗は必ずしも乗り気ではなかった。
> できれば許したくない、という空気の方が強かった。それを、創価学会が力と謀略で
> 押し切ったのである。戸田城聖の指示で、青年部幹部は、日蓮正宗の高僧に対して女
> 性を近づけ誘惑させた。その女性が懐妊すると、戸田城聖はその高僧を責めた。
> 「他人は許しても、この戸田は許しませんぞ」
>  戸田城聖はそう言って、ひたすら謝る高僧を、持っていた数珠で何度も打った。そ
> の席に、池田大作と藤原行正が同席していた。 
 (山崎正友著『懺悔の告発』より引用)


 策とは言っても単純なハニートラップだったわけだが、僧侶は聖職者という体面を守ら
なければならないため、成功した場合の効果は絶大だったであろう。
 この他にも僧侶を温泉に招き、芸者をあげて接待するなどの懐柔策も用いられたらしい。

 以上見てきたように、創価学会は〝性と暴力〟という、人間の最もプリミティブな衝動
を利用することにより、日蓮正宗を従わせてきた。

 『人間革命』第一巻(昭和40年発行)には、日蓮正宗について「これほど、清浄にして
慈悲に満ちた宗団が、世界の何処にあろうか」などと書いてあるとあるが、私にはどう見
ても世間並に汚濁にまみれているとしか思えない。

 そして、創価学会の汚さは世間並どころではない。上辺は敬うように見せかけて取り入
り、やがては暴力や策謀によって完全に支配下に置こうとする、彼らの卑怯なやり口には、
いくら警戒してもし過ぎではないのだ。

 なんとなれば、創価学会員は現在では至る所に浸透しており、公権力に対しても内部か
ら影響力を行使しようとしているからである。社会の行く末に関心をもつ者なら誰であれ、
彼らの好きにさせてはならないということを、ご理解いただけるはずである。



補足 「追撃の手をゆるめるな!」

 『人間革命』第十二巻には、的場氏へのリンチ事件について池田大作が戸田城聖に報告
した際に、「宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。(中略)追撃の手をゆるめるな!」と
戸田から言われ、これが遺言になったと述べられている。

 しかし、この言葉は池田大作によるデッチ上げだと、元教学部長の原島嵩氏が暴露して
いる(私説〝五重相対〟①参照)。龍年光氏も前掲書で「これは池田の完全な『捏造』で
ある」と述べている。

 創価学会は、若年者への教育上の配慮という、ごく真っ当な要求をした的場氏に対して
集団リンチで応え、しかも『人間革命』においては事実関係をまったく逆にして、的場氏
の側に非があったように捏造して広めた。

 何の落ち度もない者を卑劣な手段で苦しめ、恬として恥じることがない、この邪悪さこ
そが、池田大作および創価学会の本質なのである。

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2017年5月29日月曜日

〝狸祭り事件〟について

 創価学会が日蓮正宗から破門されて四半世紀以上が経過したが、彼らは現在も日蓮本仏
論などの正宗の教義に依拠し続け、各学会員の家庭においても、日蓮正宗総本山大石寺の
第26世法主・日寛が書写した本尊の複製を仏壇に祭っている。

 創価学会は日蓮正宗の宗教的権威を借りることにより、「我々には七百年の伝統があり、
新興宗教ではない」と主張し、勢力拡大に役立ててきた。

 一方で、日蓮正宗に対しては表面的には敬う姿勢を見せていたが、実際には暴力や謀略
で威嚇したり、金銭で懐柔したりして、創価学会側が主導権を握れるように画策した。

 創価学会が日蓮正宗を意のままに動かすために、如何なる手段をとってきたかを見るこ
とにより、彼らが外部の権威に対して、どのような姿勢で臨んできたかをを知ることがで
きる。

 今回は、創価学会が日蓮正宗の僧侶を暴力で屈服せしめた事件の中でも、もっともよく
知られている「狸祭り事件」について取り上げる。

 この出来事は『人間革命』第六巻においても言及されているが、その記述は例によって
学会を美化するために、少なからぬ欺瞞を含んでいる。

 「狸」とは、日蓮正宗の学僧・小笠原慈聞氏(『人間革命』では「笠原慈行」)のこと
を指す。

 小笠原氏は戦時中、神本仏迹論を説いて軍部に迎合し、当時軍部が進めていた各宗派の
統合政策にも賛同、日蓮正宗と日蓮宗との統合にも積極的だった(実際には統合には至ら
なかった)。

 『人間革命』には描かれていないが、この時も創価学会は小笠原氏と対立、暴力に及ん
だという。


>  戦局悪化の昭和18年、政府は宗教団体法により各宗各派の統合を図り、宗教の戦争
> 遂行協力体制をとらせることになった。神道はじめ、仏教、キリスト教、その他、大
> 勢に順応していった。
>  この時、牧口の創価学会は、あくまで統合に反対した。日蓮宗との統合とは、身延
> への統合である。「邪教の総本山へ統合など論外だ」と牧口は激しく本山・大石寺の
> 動きを非難した。大石寺の布教監・小笠原慈雲というのが、身延合同の急先鋒だった
> が、牧口の創価教育学会の若い会員たちは大石寺登山を行なうと、小笠原慈雲の体を
> 担ぎだし、たんぼの中に叩き込んだという。
 (藤原弘達著『創価学会をブッた斬る』より引用)

 ※ 『創価学会をブッた斬る』には小笠原〝慈雲〟と記されているが、小笠原慈聞の誤
  りと思われる。


 その後、牧口は治安維持法違反で逮捕され、獄死することになるが、牧口とともに投獄
され、戦後その後を継いで第二代会長に就任した戸田城聖は、創価学会が弾圧された責任
は小笠原氏にあるとして、昭和27年(1952年)4月27日、宗旨建立七百年記念慶祝大法会
の機会に乗じて、大勢の学会員を引き連れて大石寺に登山し、小笠原氏に牧口墓前での謝
罪を強要した。これが狸祭り事件である。

 『人間革命』には、小笠原氏が神本仏迹論を説いたのは、時局に迎合して「デッチ上げ」
たのだと述べられているが、植村左内著『これが創価学会だ』によれば、大石寺の相伝は
本来、神本仏迹論なのだという。

 戸田城聖は、日蓮正宗の内部に、教義面で創価学会と異なる解釈をする僧侶がいること
は、主導権を握る上で障害になると考え、小笠原氏に対する吊し上げを敢行したのであろ
う。

 小笠原氏は、事後『創価学会長戸田城聖己下団員暴行事件の顚末』と題した手記を発表
した。この手記の一部が『これが創価学会だ』に引用されているので、孫引きする。


>  その時に、私の面前に居丈高に座っている会長戸田城聖が、「生意気いうな小笠原」
> とにらみ、右手で私の左耳の上を強く打ちました。私は生れて始めての事で、頭が破
> れたかと思うた。すると其処にいた多数の者が寄ってタカって私を打つ、蹴る等の暴
> 行を働きましたので、私は後ろに倒れました。其の時に戸田が、「命は惜しゅうない
> か」と言いましたので、私は「不惜身命」と叫びますと、青年は「先生の前に足を出
> すとは不届きじゃ」と、私の襟首を摑んで引き起し、「衣服をぬがしてしまえ」と、
> 私の衣服(被布、襦袢、袷、襟巻)を引きむしり、シャツ一枚の裸にしました。その
> 時に懐中物が落ちたので私が拾おうとすると、戸田が「それは己れが預る」と奪い取
> りました。私は声を大にして「汝等は追剥か、強盗か」と叫ぶと、又戸田が私の右の
> 横面を強打しました。私は大声に「神本仏迹であろうが、何であろうが信教自由であ
> る、汝等に制裁を受けるいわれはない、新憲法はそれを保証している」と叫びました。
> 彼等は、ワッと声をあて私をつるし上げ、頭、胴、手、足を六、七人で担ぎ表に出ま
> した。見ると寂日房の前庭は、彼等一味党類で一ぱいになっていました。


 小笠原氏はこの後、学会員数名に担ぎ上げられたまま、大石寺境内にある牧口前会長の
墓前に連行され、謝罪文を書かされた。担ぎ上げられ境内を練り歩く際、小笠原氏が「ま
るで狸祭りじゃのう」と述べたことから、「狸祭り事件」と呼ばれるようになったらしい
(「狸祭り」と呼ばれるようになった所以については諸説あり)。

 宗旨建立七百年を慶賀するイベントの際に、このような騒動を起こしたことから、地元
の信徒も聞きつけて墓地に詰めかけ、乱闘騒ぎに発展したという。
 上記引用と同じ場面について、『人間革命』第六巻は以下のように描写している。


>  考えてみると、僧籍こそ剥奪されているが、笠原もまた、日蓮大聖人の弟子である
> ことに変わりはない。そのおなじ立ち場に立って、心を打ちあけて話し合えば、誤り
> を誤りとして、必ず認めさせることができるはずだ。
>  それには、まず、笠原の虚栄を支えているものを取り除けば、少しは気持ちも変わ
> るに違いない。結局、仮構の見栄が災いしているのであろう。――戸田は、互いに信
> 徒として話し合う必要を感じていた。
> 「僧籍はないのですから、法衣を脱いでもいいのではないですか」
>  それを聞くと、笠原は、なおも、わけのわからぬことを口走って、極度の興奮状態
> におちいってしまった。
> 「法衣など、勝手に脱ぐわ!」
>  笠原は、そう言い放つと、いきなり、やけになったように、法衣を荒々しく脱ぎは
> じめた。そればかりではない。何を思ったのか、法衣の下の着物まで脱いでしまった
> のである。周りの人々が、とめるいとまもなく、笠原は、シャツと股引き姿の、貧相
> な格好になっていた。
 (中略)
>  笠原は、あいかわらず押し黙っていたが、このとき、いきなり脚をぐんと伸ばして、
> 戸田の膝をしたたかに蹴りつけたのである。
>  それを見た、数人の青年は、大声で叫んだ。
> 「なにをするんだ! ……やめなさい!」
>  そして、笠原に、つかみかからんばかりの姿勢になっていた。
>  途端に、戸田の叱声が響きわたった。
> 「よせ! 絶対に傷をつけてはならん! ……こんな男は、なぐるにも値しない。放
> っておきなさい」


 小笠原氏の手記と『人間革命』では、どちらの側が暴力をふるったかが逆になっている。
 また、小笠原氏が僧衣を自発的に脱いだのか、無理やり引きはがされたのかについても
異なる。

 『人間革命』では、戸田城聖の「笠原(小笠原)には絶対に傷をつけてはならん」との
指示のもと、創価学会側には一切の暴力行為はなかったように描かれている。

 しかし、実際には小笠原氏は全治数週間の負傷を受け、医師の診断書を添付して告訴し
た。そのため、戸田城聖と筆頭理事の和泉覚は、警察に拘留され取り調べを受けた。

 その後、創価学会は30万円を支払って小笠原氏と示談した(昭和20年代後半のことなの
で、物価水準を考えれば、現在の金額の十数倍の価値はあると思われる)。

 『人間革命』には、学会が示談金を支払ったことなどは、一切書かれていないが、こう
した経緯を見れば、創価学会側が暴力をふるったことは明らかである。

 小笠原氏は明治8年(1975年)生まれ、事件が起きた昭和27年(1952年)には77歳を迎
えるという高齢だった。その老人を、過去のいきさつがあるとはいえ、宗教上の意見が違
うというだけで、集団で暴行を加え圧伏せしめようとする創価学会の悪質さには慄然とさ
せられる。

 事件直後、創価学会はシャツ一枚のみじめな姿の小笠原氏の写真を、機関誌『大白蓮華』
に掲載して勝ち誇ったが、日蓮正宗側は僧侶への暴行事件を問題視し、宗会を開いて戸田
に謝罪文提出を要求し、あわせて大講頭罷免、登山停止を決議した。

 この決議に対し、創価学会側は宗会議員を務める僧侶が住職を務める寺院に押しかけ、
長時間の談判により撤回を約束させるという各個撃破により、決議を撤回させた。この際
には、池田大作も僧侶への面談を行った。

 集団リンチそのものといえる暴行事件の直後であっただけに、この直談判には当事者を
畏怖せしめ、創価学会のすることに異を唱えようとする者を委縮させる効果があったこと
だろう。

 事実、この当時の『聖教新聞』には、相当に挑発的な記事が掲載されていた。その見出
しは「学会堪忍袋の緒切る」「「第二次〝狸祭〟実現か」「強談判に実に六時間」などと
いうもので、暴力をチラつかせて日蓮正宗側を威圧しようとする意図は明白である(山本
七平著『池田大作と日本人の宗教心』による)。

 この事件は、当時の日蓮正宗法主・水谷日昇氏の「誡告文」(昭和27年7月24日付)を
受けて、戸田城聖が「御詫状」(同年7月30日付)を提出し、創価学会の寄進により大石
寺の五重塔を修復することで幕引きとなった。

 この「誡告文」と「御詫状」の一部を、それぞれ以下に引用する(これも『池田大作と
日本人の宗教心』からの孫引き)。


 「誡告文」
>  末法の僧は十界互具の凡僧であるから、多少の過咎は免かれない。僧侶に瑕瑾があ
> れば、正統なる手続きによるべきである。今後、かかる直接行為をなすことは堅く禁
> 止する。今回のことは、その拠て起きた情状を酌量し尚、永年の護法の功績を認める
> に依り此の如く後の誡めとする。

 「御詫状」
>  創価学会員は噂のうちにある如き暴力の徒では決してありません。御本山に対し猊
> 下が「予が法類」とお呼び遊ばす御僧侶に対しては恭順なる信徒であることを、確信
> を持って言上致します。
>  只、宗内において余りに謗法に傾き過ぎたり、大白法の信奉に惰弱なる者を見る時、
> 況や宗外の邪宗徒をせめる時は宗開両祖の教を胸に深く刻むが故に、決定的な闘争に
> なる傾きがあるのであります。
>  これが行き過ぎのなき様に深く会員を誡めて指導致しますが「護法」の精神に燃ゆ
> る所、生命を惜まぬが日蓮正宗信者なりとも亦日夜訓えて居ります為に、その度を計
> りかね名誉も命も捨てて稍々もすれば行き過ぎもあるかも知れませんが、末法の私共
> は十界互具の凡夫であり愚者でますから、宏大の御慈悲をもって御見捨てなく御指導
> 下さる様、重ねて御願いします。


 水谷法主の「今後、かかる直接行為をなすことは堅く禁止する」との誡告に対して、戸
田会長は「宗開両祖の教を胸に深く刻むが故に、決定的な闘争になる傾きがある」などと
弁解してはいるが、二度としないと誓約しているわけではない。面従腹背のおもむきがあ
る「御詫状」である。

 実際、創価学会はこの後も、日蓮正宗僧侶に対する暴行事件を引き起こしたし、水谷日
昇氏に対しては謀略を用いて法主の地位から追い落としている(この件については稿を改
めて論じる)。

 創価学会は、上位団体である日蓮正宗に対して表向きは従いつつも、暴力や強引な直談
判、その他の謀略を用いて主導権を握ろうと画策してきた。

 創価学会は、日蓮正宗との関係で培ったこうした権謀術数のノウハウを、マスコミ対策
や「総体革命」と称する権力への浸透工作においても役立ててきたのではないだろうか。

 司法や法律といった外部の権威に対し、表面上は恭順するように見せながら、実は面従
腹背で、権力に取り入って自分たちに都合のいいように利用しようと、虎視眈々と狙い続
ける。これが創価学会の体質である。

 近年の創価学会は、あからさまな暴力を用いることはなくなったが、その反社会的体質
は何も変わっていない。

 社会から良識が失われ、邪悪なカルトが好き放題できる悪夢のような世の中が実現する
ことを防ぐためにも、創価学会の術策によりいいように操られてきた日蓮正宗を〝他山の
石〟とし、最近の上辺だけは大人しくなった創価学会を見て、油断している人々に「彼ら
の微笑戦術に騙されてはならない」と、訴え続ける必要があると思う。



補足1 神本仏迹論について

 日本史で本地垂迹説を習った方も多いこととと思う。日本では仏教伝来とともに神仏習
合が進み、日本古来の神祇は仏が仮に応現したものであるという考えが生まれた。これが
本地垂迹説である(垂迹とは「本体の影」といった意味)。

 その後に、日本の神祇が本地であり、仏の方が垂迹であるという考え方が生まれた。こ
ちらは神本仏迹論と呼ばれる。(反本地垂迹説ともいう)。


補足2 「狸祭り」の由来

 平成30年(2018年)2月27日付で刊行された『創価学会秘史』(高橋篤史著)によると、
「狸祭り」という呼称は事件を引き起こした創価学会青年部の幹部たちが、事前に考えて
いた作戦名だったという。

 『創価学会秘史』は、著者・高橋氏が入手したこの事件に関する創価学会側の記録等、
多数の史料に基づいて執筆されており、「狸祭り」の由来についての記述も信頼できると
思われる。

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2017年5月26日金曜日

「福子」として育てられるということ

 創価学会では、学会員の家庭に生まれ育った子のことを「福子(フクシ)」という。
 福子に対しては、幼い頃から創価学会の教義に基づいた教育がなされることになる。

 親には子を教育する権利があり、宗教についての教育もその権利の中に含まれるが、学
会員の家庭の場合、社会常識から逸脱した教育が行われることが珍しくない。

 創価学会は、唯一の正しい宗教を自称しているため、学会員の子弟に対しても「創価学
会だけが正しい宗教で、それ以外はすべて邪教」と教えている。

 それだけではなく、「疑えばバチが当たる、地獄に堕ちる」「良いことがあれば信心の
功徳、悪いことは信心が足りないせい」と刷り込まれ、非科学的なご利益信仰と罰論を、
絶対的な真理であるかのように思い込ませる。

 中でも、特に重視されるのは池田大作への個人崇拝である。批判本の中から、学会員の
家庭でどのような教育がなされているかを記した一節を引用する。


> 「池田先生はなんでもご存じなのよ。学会員みんなの苦しみ、悩み、悲しみをすべて
> 知っておられる偉大な方なのよ」
>  この言葉を素直に信じ、小学生だった子供たちは創価学会の一員たることの誇りを
> 大きくし、母の姿を追うように熱心な池田教信者になった。彼らは池田神話を疑いも
> しなかった。池田神話とは何か。池田先生はなんでも知っている、ぼくたちの苦しみ、
> 悩みを本当に理解してくださるのは池田先生お一人だ。自分たちもすべて池田先生の
> ために頑張るんだ。
>  少年少女時代から数十回、数百回と池田礼賛の言葉ばかり聞かされるうち、子供た
> ち精神の奥深くに池田崇拝の一念が植えつけられ、学会員特有の感覚が芽生えるので
> ある。学会活動に励むのも池田先生のため、選挙応援に走り回るのも池田先生のため
> ……池田先生は理屈抜きに素晴らしい方、池田先生イコール創価学会……。この論理
> こそ、池田大作が長い時間をかけ、用意周到に五百万会員へ仕掛けた池田崇拝の産物
> なのである。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


>  特に幼児期においては、学会の外郭企業であるシナノ企画が制作、販売している池
> 田大作原作の童話アニメ『太平洋にかける虹』や『ヒロシマへの旅』などを見せるこ
> とで、「これは池田先生が書かれたものですよ。これもそうよ。先生は偉い方なのよ」
> と、繰り返し説くことで、池田大作への崇拝の念をしっかりと植えつけるのである。
 (古川利明著『カルトとしての創価学会=池田大作』より引用)


>  「先生は慈悲そのものの方だ」「先生は私達の悩みを全部解ってくださっている」
> 「先生には私達の真心は必ず通じる」「先生はすべてを見通していられる」「先生に
> 近づけば福運がつく」等々とキリがないくらいの神話が生まれてきました。仏のごと
> き大境涯の「先生」像が、このような過程の中からできあがっていきました。
 (中略)
>  〝純真な〟会員は、自分の理想の人間像を「先生」に託し、投影させ、伝えられる
> エピソードを貪欲に吸収して更に偶像化し、崇拝を強めていきます。極端な場合は、
> 「先生」の名前やエピソードを聞いただけで涙ぐみ、胸を熱くするといった狂信状況
> すら現れてきます。まさに「先生」を核にした集団幻想の世界のみに生きがいを覚え
> る特殊人間群であります。そうなると、正常感覚の持ち主ほど組織から離れざるをえ
> ないし、また排除されていきます。それはもう邪宗教の持つ阿片性といっても過言で
> はないでしょう。程度の差はあれ、このようななにがしかの「先生」への幻想を抱か
> ない限り、今の学会の中ではとても信仰活動をやってはいけません。
 (福島源次郎著『蘇生への選択』より引用)


 このような個人崇拝は、どう考えても異常である。もし仮に、池田名誉会長が実際に偉
大な人物であったとしても、幼少時から崇拝の念を植え付けるのは、行き過ぎである。

 しかも実際には、創価学会によって流布されている池田大作の姿は虚像に過ぎない。彼
ほど、虚像と実像の乖離がはなはだしい人物は稀であろう。

 池田大作自身が作り上げてきた彼の虚像は、幼少時から数万冊の蔵書に囲まれて育った
知識人であり、作家・詩人・思想家・平和運動家として超人的な量の著作を執筆、しかも
その印税収入は広宣流布のために寄付するという、清貧にして高潔な人格者、さらにその
識見・人格に惹かれた各国の著名人と会談し、世界中から勲章や名誉称号を授与されてき
た偉人であり、学会員からは「日蓮大聖人の再誕にして末法の御本仏」と仰がれる、傑出
した宗教指導者というものである。

 だが現実には、池田名義の膨大な著作物は、ほぼすべてゴーストライターによるものと
暴露されており、著名人との会談や名誉称号等も金を積んで実現してきたものである。

 さらに女性関係の醜聞や、末端学会員を搾取し、宗教施設と称しながら、実態は専用の
別荘を多数建設し、贅沢三昧の暮らしを満喫してきたことも、周知のものとなっている。

 このような池田の実像を学会員が知り、洗脳が解けることを防ぐために、創価学会では
「週刊誌や批判本で創価学会や池田先生が悪く言われるのは、ほかの宗教の信者が創価学
会の素晴らしさに嫉妬してウソを言っている」とか、「ネット上にある学会批判はすべて
デマ」「批判が起こるのは魔の働き」などと学会員に吹き込んいる。

 また、これまで述べてきたように、創価学会は矛盾だらけである。それに気づくには、
何も外部の人間による批判に目を通す必要などない。

 彼らが「現代の御書」であるという『人間革命』を読めば、まともな思考力を持った者
ならば、おかしいと気づくはずである。
 以前述べた内容と重複するものもあるが、その例をいくつか挙げる。

「時代の進展によって変更しなければならない教義や、矛盾に満ちた宗教は、誤れる宗教
と断定すべきである」(第二巻)

「御僧侶が浄財を、とんでもないことに使ったとしても、われわれの感知するところでは
ない」(第三巻)

「なにがどうあろうと、なにがどう起きようと、日蓮正宗の信仰だけは、絶対に疑っては
ならぬ」(第六巻)

 「末法の御本仏」たる池田センセイが、その代表作である『人間革命』に、はっきりと
上記のように書いておられるにもかかわらず、創価学会は教義を変更したし、日蓮正宗の
先代法主・阿部日顕氏の金使いを批判してきたし、日蓮正宗の信仰を疑うどころではなく
破門までされ、そのことを逆恨みして「日顕宗」と呼び、悪罵し続けている。

 ほとんどの学会員は、こうしたことに疑問を感じるような知的能力がないか、幼少時か
らの洗脳により、完全な思考停止に陥っているのである。

 創価学会に都合の悪い情報を目にすると、思考停止してそれ以上のことは考えないよう
にし、それでも疑念が起これば必死に題目を唱えて忘れようとする。これが洗脳された学
会員の、思考・行動パターンになっている。

 彼らがそうするのは、「疑えばバチが当たる」と思い込んでいるからである。
 そして、この思考停止は倫理観の麻痺をも伴う。

 創価学会員と実際に接した経験のある方のほとんどが感じておられることと思うが、彼
らの中には、人間的に問題のある者が非常に多い。

 批判的な情報に触れても、絶対に創価学会を疑わないという思考停止と、仏法=創価学
会は、国法(法律)や世法(常識)に優先するという教義とがあいまって、相手が学会員
でなければ何をしても構わない、思いやる必要はない、警察に捕まりさえしなければいい
という、反社会的態度を生み出すのである。

 もちろん、すべての学会員が反社会的な人間というわけではない。中には、よい教師や
友人などから感化され、健全な社会常識や倫理観をもつ者いる。

 しかし、そうしたまともな人間は、創価学会という閉鎖的な社会の中においては、カラ
スの群れに紛れこんだ白鷺のごとく疎外感を感じ、周囲との価値観・倫理観の相違に悩む
ことになる。

 なぜなら、多くの学会員が無条件に善だと信じている学会活動の多くは、折伏やF取り、
脱会者・批判者への嫌がらせなど、世間的にはただの迷惑行為に過ぎないからである。

 嫌なら辞めればいいのではないかと思われるかもしれないが、親から扶養される未成年
者であれば、親の信仰から離れることは困難だし、成年であっても、実の親と敵対するよ
うな選択をすることは難しい。

 密度の濃い人間関係に絡めとられて、辞めたくても簡単には抜けられないというのが、
創価学会の特色の一つとなっている。

 「福子」として育てられながら、創価学会がカルトだと気づいた者は、多くの場合、学
会活動を止め、非活(ヒカツ)と呼ばれるようになるが、親しくしていた人たちから退転
者として冷たい視線を浴びせられ、苦悩している者も少なくないという。

 創価学会員の家庭における、非常に偏った教育の在り方は、人権侵害に該当するのでは
ないかと考えられる。

 児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)には、以下の規定がある(法律の条文を
読むのが煩わしい方は、読み飛ばしてください)。


 第18条
 1 締約国は、児童の養育及び発達について父母が共同の責任を有するという原則につ
  いての認識を確保するために最善の努力を払う。父母又は場合により法定保護者は、
  児童の養育及び発達についての第一義的な責任を有する。児童の最善の利益は、これ
  らの者の基本的な関心事項となるものとする。

 第19条
 1 締約国は、児童が父母、法定保護者又は児童を監護する他の者による監護を受けて
  いる間において、あらゆる形態の身体的若しくは精神的な暴力、傷害若しくは虐待、
  放置若しくは怠慢な取扱い、不当な取扱い又は搾取(性的虐待を含む。)からその児
  童を保護するためすべての適当な立法上、行政上、社会上及び教育上の措置をとる。


 児童の権利に関する条約に対応する国内法は児童福祉法であり、この法律には以下のよ
うな規定がある。


 第一条 全て児童は、児童の権利に関する条約の精神にのつとり、適切に養育されるこ
  と、その生活を保障されること、愛され、保護されること、その心身の健やかな成長
  及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有す
  る。

 第二条 全て国民は、児童が良好な環境において生まれ、かつ、社会のあらゆる分野に
  おいて、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益
  が優先して考慮され、心身ともに健やかに育成されるよう努めなければならない。
  ○2 児童の保護者は、児童を心身ともに健やかに育成することについて第一義的責
  任を負う。
  ○3 国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育
  成する責任を負う。


 創価学会の独善的で反社会的な教義や、池田大作のごとき悪しき俗物への個人崇拝を児
童に植え付けることは、「心身の健やかな成長」を保証される権利を侵害する行為である
ことは明白であろう。精神的な虐待といっても、過言ではないかもしれない。

 残念ながら、現行の法制には創価学会のようなカルトによる洗脳を、明確に規制する条
文は存在しない。公明党が国会で一定の勢力を保っている間は、そのような法律の制定は
妨害されること必至だし、仮に妨害がなくても家庭での教育を規制することは、立法上困
難ではないかと思われる。

 児童福祉法は「児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され」るよう努め
なければならない、と規定しており、一定の判断能力のある年齢、例えば刑事責任年齢で
ある14歳以上の者については、親の庇護を受けているとしても、信教の自由を相当程度に
認めるべきではないかと思われるが、この規定は努力義務なので、違反しても罰則等の法
的制裁が科されるものではない。

 創価学会は、数百万人の会員を擁するマンモス教団である。そうような巨大組織が押し
つける理不尽な洗脳に対して、一個人の良識だけで立ち向かうことは困難であり、公的な
対応が必要と考えられるが、奴らが権力を握っている間は、カルトに対する法的規制を実
現することは難しい。

 迂遠なようであるが、創価学会がいかに反社会的で人権蹂躙的なカルトであるかを、少
しずつでも広めていくしかないのであろう。当ブログがその一助となるよう、私も務めて
いきたいと考えている。



補足1 福子の語源

 福子とは、法華経の法師功徳品第十九にある「安楽産福子」に由来する。創価学会だけ
ではなく、他の日蓮系教団でも使われるようである。


補足2 被害者面した加害者

 創価学会員の中には強引な折伏を行い、それを所属する組織(学校・会社等)において
問題視されると、「自分もそれが正しいことだと思い込まされ、仕方なくやっている」な
どと、被害者面して批判をかわそうとする者もいる。

 そういう者に限って、ほとぼりが冷めたころに、また同じことを繰り返すことが多い。
創価学会の反社会性と、良識との板挟みになって葛藤し、折伏などの学会活動に消極的な
学会員は被害者だといえるが、都合のいい時だけ被害者面する者に騙されてはならない。

 折伏をするような者については、その情報を共有し、警戒を怠るべきではない。狂信的
な学会員はカルトの被害者ではなく、加害者として厳しい目を向ける必要がある。

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2017年5月24日水曜日

池田城久の死

 昭和59年(1984年)10月3日、池田大作の次男、城久氏が死去した。死因は胃穿孔、享
年29歳という若さであった。

 『聖教新聞』では同年10月5日付で、「九月中旬ごろ胃痛を訴え検査したところ胃潰瘍
との診断で、九月二十五日から治療をしていた。三日午後、容態が急変して、東京・豊島
区の癌研究会附属病院に緊急に入院し、手術したが、出血のため死去した」と伝えた。

 しかし、この出来事には、表向きの訃報では伝えられていない点が多い。
 まず、城久氏が癌研究会附属病院に入院し、そこで死去したのは事実だが、実はその前
に、創価学会ドクター部に所属する産婦人科医・石川信子医師が経営する「新生クリニッ
ク」に入院していた。

 常識的に考えれば、創価学会名誉会長の御曹司である城久氏が、重症の胃潰瘍を病んだ
のであれば、名のある大病院に入院し、消化器外科の名医から診療を受けるのが筋ではな
いか、と思われる。

 それにもかかわらず、実際には専門外の産婦人科医の診療を受けたために適切な治療を
受けられず、潰瘍から胃穿孔にまで悪化し、慌てて近隣の癌研究会附属病院に転院して手
術したものの、手遅れで死に至るというまずい対応がとられたのである。

 しかも城久氏は、どちらの病院にも「石川信一」という偽名で入院していた。
 城久氏は、池田大作の三人の息子のなかでは最も父親に似ており、跡取りとして期待さ
れていた。その城久氏が、偽名を使って入院し、適切な医療を受けていれば防ぐことがで
きたはずの、死に至ってしまったのはなぜだろうか。

 その最大の理由は、これまで当ブログで述べてきたように、創価学会がそれまで「病気
になるのは信心がおかしいから」と主張してきたことにある。

 教祖の息子が病気で入院したということになると、信仰に疑いを持つ信者が出かねない。
そのため本名を隠して、懇意にしていた医師の診療所に入院させたのであろう。

 池田大作はそれ以前、「未だかつて病気の人なんかで、僕の頭の中に入った人で、祈っ
て死んだ人は一人もいないんだ」とのたまっていた。

 それが実際には、跡取り候補の息子を救うことすらできなかったのである。城久氏は、
父親の体面のために犠牲になったと言った方が正確だろう。これが学会員から「末法の御
本仏」と崇拝される池田大作の、現実の姿なのだ。

 この出来事は学会内ではタブーとされ、公の場では池田大作を含め、幹部はいっさい語
らなかったという。
 しかし、城久氏の死は、一部の学会員には強い印象を与えたようである。


>  その少しあと、何人かの学会員から私が聞かされた打ち明け話は強烈であった。彼
> らはかつて子供を亡くした人たちだったが、その時に池田から散々な嫌味をぶつけら
> れていたのだ。その悔しさを私にこっそり打ち明けた。
>  池田先生の息子が死んで助かった。やっと気が楽になった。これまでずっと我慢し
> てきたけど本当につらかった。おまえの子が死んだのは信心を怠けた証拠だと顔を見
> るたびに池田先生から説教されたり、皮肉られたり、怒られたりした。それが息子の
> 死で嫌味をいわれなくなったというのである。私自身、その現場に居合わせたことも
> あるが、子を死なせ、病気で苦しむ学会員の不幸を池田は笑いさえした。
> 「病気をする人間は信心が足りないからだ」
> 「子が死んだのは仏罰だ、一から信心をやり直せ」
>  池田が遠慮なく学会員にぶつけてきた言葉である。当の学会員は顔を伏せるばかり
> だった。自分の家族を亡くしても泣けない、身内の病気を口にするのさえ憚る。池田
> 支配の創価学会の、これが現実である。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 「病気になるのは信心を怠けた証拠」と言われるのでは、病院に通うのも人目をはばか
る必要があるだろうし、不幸にして子供を亡くすと、「仏罰」となじられる。創価学会の
いう「絶対幸福の境涯」とは、いったい何なのだろうと、考えさせられる話である。


 城久氏の死因である胃穿孔は、胃潰瘍が悪化して、文字通り「胃に穴が開く」ものであ
る。強いストレスを感じることを「胃に穴が開くよう」と形容することがあるが、ストレ
スは胃酸過多の原因となり、時に胃穿孔に至ることもあるという。

 城久氏も、昭和59年(1984年)夏ごろから、鬱の症状を示し、徐々にやつれていったと
いわれる。

 創価学会においては、池田大作の一族はアンタッチャブルな存在であり、手厚く守られ
ている。城久氏も、学生時代から「ご学友」と呼ばれる取り巻きに守られ、創価学会本部
に就職後は、美人と評判の妻と結婚して子をもうけ、しかも前述のように将来を嘱望され
ていた。

 一見するとなに不自由ない身分で、重いストレスを受ける境遇ではないように思われる。
城久氏は父親に性格が似ていたというから、後継者とみなされることをプレッシャーとし
て感じることもなかったであろう。

 池田大作のずぶとさを受け継いだ彼を、鬱になるほど悩ませたのは、評判の美人妻とそ
の子についての噂だったらしい。


>  それにもう一つ、城久とその妻であるみさ子(旧姓・熊沢)との結婚ミステリーが
> ある。一部週刊誌などには、城久がみさ子にぞっこんで卒業後すぐ結婚などと流され
> た。実は、城久本人とみさ子は婚前に殆ど接点がなく、むしろ接点があったのは親の
> 大作とだった。創価大学の八階にある池田の専用施設には学生、職員、教員の誰もが
> 入室を許されないが、みさ子はこの部屋にフリーパスで入れる唯一の学生だった。池
> 田はみさ子を「熊公、熊公」と呼び、可愛がった。大学卒業後はすぐに自分の世話係
> として、第一庶務に配属させた。はたして、池田は可愛い我が子にまで「御下げ渡し」
> の娘を結婚相手として選んだのだろうか。城久の死因である胃穿孔という病状の根拠
> がそこにある。少なくとも、そう思われて仕方ない。〝親子どんぶり〟以上に汚れた、
> 普通ではありえない、戦慄すべきことである。
 (内藤国夫著『創価学会・公明党スキャンダル・ウォッチング』より引用)


 池田大作は、学会員の中から気に入った若い女性を、学会本部の「第一庶務」の職員に
して自分に奉仕させ、飽きると学会幹部に妻として下げ渡していた。

 城久氏の妻も第一庶務の元職員であり、しかも婚前にはほとんど接点がなかったにもか
かわらず、結婚時には身重だったという。城久氏が鬱になり、胃に穴が開くほど苦悩した
のは、妻と父親との関係を知ったからではないかと、取り沙汰されたのである。


 池田城久氏という一個人の死は、医療を軽視する非科学的なご利益信仰や、池田大作の
常軌を逸した女性関係、都合の悪いことをなかったことにしようとする隠蔽体質などの、
創価学会の悪しき体質が交差したところに惹起した事象だったといえる。

 城久氏の死とそれにまつわる事情は、彼が教祖の息子で跡取り候補であったために、学
会が隠そうとしたにもかかわらず、世間の知るところとなったが、無名の学会員の中にも
城久氏と同じように、病気を隠さざるを得なかったために寿命を縮めた例は少なくなかっ
たのではないか。もって瞑すべしである。

 犠牲者の死を無駄にせず、新たな被害者を出さないためにも、創価学会という悪質なカ
ルトの害悪を、これからも追及し続けなければならない。



補足

 池田大作はかつて、「他の団体ならいざ知らず、宗教界にあって、教団の世界にあって
世襲制度ということはもっとも誤った、いやしい姿であります」(『聖教新聞』昭和36年
〔1961年〕10月7日付)と語っていた。

 しかし、高齢になるにつれ、息子への世襲を考えるようになった(一説には妻のかねの
要望が大きいという)。

 跡取り候補の筆頭だった城久氏が夭逝したため、長男の博正氏が後継者と目されるよう
になったものの、彼は精神的に脆弱で、巨大教団のトップは務まらないとの世評もある。

 ジャーナリスト・野田峯雄氏は著書で、池田大作は城久氏の子を後継者としようとして
いたと述べている。


>  79年の城久との結婚時、M子のお腹にいた長男Tさんは城久と同様に創価大学を卒
> 業して同大学の職員になった(次子は女性)。大作が真の創価学会後継者と考えたの
> は、じつは、その〝城久とM子の長男〟、Tさんだったという。
 (野田峯雄著『さらば池田大作』より引用)


 同書は野田氏の絶筆であり、上記引用を記した項で終わっている。Tさんが学会内部で
後継者として認められているか否かは、述べられていない。

 私としては、誰が創価学会の後継者になろうと、その反社会的体質に変わりはないと思
うので批判をやめるつもりはないが、Tさんが若き日の池田大作に生き写しだっりしたら、
学会員の皆さんはどのように反応するのか、いくらか興味がある。

 「お孫さんだけあって、池田先生そっくり」などと能天気にのたまうのか、「やはり」
と意味深長な目配せを交しあうのか。はたして、どちらだろうか……。

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2017年5月22日月曜日

紙を飲む宗教③

 ※ 承前 紙を飲む宗教

 前回、『人間革命』における護秘符の使用例について概説したが、実は『聖教新聞』で
の連載時には言及されていたものの、単行本には掲載されなかった使用例も存在する。当
該の一節を以下に示す。


>  小西理事長は病院に飛んだ。……浅田は内臓の苦しさのからの苦悶と、呼吸の困難
> さから断末魔の表情さえ浮かべていた。小西は早速、……唱題しつつ御秘符を飲ませ
> たのである。暫くして浅田の顔から苦悶の表情がみるみる消えはじめた。
 (七里和乗著『池田大作・幻想の野望』より引用〔孫引き〕
     初出『聖教新聞』』昭和55年(1980年)10月11日付)


 ここでは「護秘符」ではなく「御秘符」という正式名称で記されている。このことは、
この文章が聖教紙上に掲載された昭和55年の前年、池田大作が創価学会会長を辞任した
ことと関係している。

 池田大作は昭和52年(1977年)、日蓮正宗に反旗を翻し、元々は正宗傘下の信徒団体に
過ぎなかった創価学会を、逆に主導的な立場とし、宗門を従わせようと画策したものの、
教義や本尊を握る日蓮正宗の宗教的権威の前に屈服を余儀なくされ、昭和54年(1979年)
には会長辞任に追い込まれた。

 創価学会はそれまで、日蓮正宗の秘法である「御秘符」のマガイモノを、「護符」と称
して勝手につくり、それを学会員に飲ませるなどやりたい放題やってきたが、それも改め
ざるを得なくなった。

 そのため『人間革命』における記述も、「護秘符」から「御秘符」に変わったのである。
 もっとも、日蓮正宗に対して恭順して見せたのは、表面上だけに過ぎず、その後も学会
内部で「護符」は使われ続けたという。

 話は飛ぶようだが、上記引用が『聖教新聞』に掲載された5ヶ月前の1980年5月8日、W
HOは天然痘の根絶を宣言した。有史以来、多くの人命を奪ってきた感染症の一つが、地
球上から消滅したのである。

 創価学会は、医学の進歩が歴史的な偉業を達成したのとほぼ同じ時期に、相も変わらず
非科学的なマジナイの宣揚に努めていたのだ。

 さて、上記の『聖教新聞』の文章は、順当にいけば『人間革命』第十一巻に含まれてい
たはずだが、実際にはそうなっていない。

 その理由は、『人間革命』の連載が昭和55年(1980年)11月20日付の掲載以降、十年以
上にわたって中断したことによる。

 連載が再開されたのは平成3年(1991年)5月3日、『人間革命』第十一巻が刊行された
のは、その翌年の1月26日であり、その間に創価学会は日蓮正宗から破門された。

 日蓮正宗との関係が敵対的なものとなってしまった以上、その日蓮正宗の秘法である御
秘符を宣揚する文章を、『人間革命』の単行本に載せる訳にはいかなかったのであろう。

 日蓮正宗とは完全に袂を分かった創価学会だが、ネット上には、現在でも護符を学会員
に飲ませることがあるらしいとの情報も存在する。

 Yahoo!知恵袋に「創価学会第一庶務で病に伏した幹部に渡される『護符』について教え
てください」(2013年2月3日付)との質問があり、質問者がパーキンソン病の母親ととも
に信濃町の学会本部第一庶務に出むいた際に、面会した学会副会長から護符を渡されたと
の記述がある。

 その際には「先生が毎日御祈念申し上げられている御本尊様をお拭きした『御秘符』で
す。どうか、これを呑んで平癒祈念をなさってください」との説明があったのだとか。

 この質問者は、かつては創価学会員だったが、質問した時点では日蓮正宗の講員となっ
ており、書き込まれている内容には相応のバイアスがかかっているであろうことは考慮す
べきだが、もし事実であれば、創価学会は21世紀になってからも、病気治しのために紙切
れを飲むというマジナイ療法を行っていることになる。

 私はこれまでに、学会員の非常識さをさんざん見てきた。その経験に基づいて言うなら
ば、彼らがそういうバカげたことを続けていたとしても、驚くには値しない。

 学会員というのは、論理的に破綻した主張をして、それを「創価学会が正しい証拠だ」
と言い張るような、頭がおかしい連中ばかりだからだ。

 学会員のほとんどは、〝他の宗教は科学的な根拠がない間違った宗教で、創価学会だけ
が科学と調和する唯一の正しい宗教〟と本気で思い込んでおり、しかも連中の頭の中では、
彼らの言うところの〝科学〟と、護符のようなインチキなマジナイが矛盾することなく同
居しているのである。

 いや、深遠な仏法の哲理を究めた学会員からすれば、浅学非才の私などには創価学会の
素晴らしさを理解できず、そのために程度の低い批判しかできないのだと、おっしゃられ
るかもしれない。そんな学会員がもしいらっしゃるのであれば、次の質問にお答えいただ
きたい。

 護秘符や護符の効果に再現性はあるのか、食紅や紙切れを飲むことと病気平癒との因果
関係を合理的に説明できるのか、転重軽受という教義は反証可能なのか、そして創価学会
員の中に、本来の意味での科学的・合理的な思考ができる者がどれだけいるのか。

 答えられるものなら、是非とも御教示いただきたいものである。


 ※ 池田大作が創価学会会長を辞任せざるを得なくなった経緯や、『人間革命』の長期
  休載の理由は、いずれ稿を改めて論じる予定である。



蛇足

 個人的な見解というか、ほとんどの常識人から同意いただけるものと思うが、そもそも
宗教は科学ではない。

 科学的な仮説には、それを反証する手段が存在することが求められ、仮説を検証する際
には実証性・再現性が重視される。

 それに対し、宗教の核心である信仰は、反証も実証も不可能な教義を、「正しい」と思
い込むことだからである。

 この点は創価学会も、それ以外の宗教も同じであろう。
 だが創価学会の場合、ほかの宗教と比べても、特に論理性の欠如がはなはだしい。

 まともな宗教家は、信仰が本質的に科学とは異質なものであり、信仰の正統性を、科学
的な方法で実証することなどできないことを理解しているので、「科学と調和した唯一の
宗教」などと僭称したりはしない。

 それにもし、科学と宗教の調和があり得るとすれば、適切なすみ分け以外にあり得ない
だろう。

 創価学会が、プラシーボ効果以上のことは何も期待できないインチキなマジナイを、万
病が治るものであるかのごとく主張し、しかもそれでいながら「科学との調和」を謳って
きたことは、彼らには科学的な医療と、非科学的な呪術との区別ができないという、知性
の欠如を証明するものでしかない。

 ただ、創価学会が科学との調和を謳ったり、池田大作が外国の政府や自治体から与えら
れる名誉称号や、大学の学位などを求める理由については、一考の価値があると思う。

 「唯一正しい」存在である創価学会が、なぜ外部の権威からの承認を得る必要があるの
だろうか。そのような行動を取ることに、学会員は疑問を感じないのだろうか。つくづく
解せない集団である。

2017年5月20日土曜日

紙を飲む宗教②

 ※ 承前 紙を飲む宗教①

 護秘符は『人間革命』全12巻中、第七巻に一回(前回引用)、第八巻に三回の計四回登
場する。『人間革命』において、護秘符が誰に使われ、どのような結果をもたらしたと述
べられているかを、以下、掲載順に記す。


事例1
対象:四歳くらいの男児
疾患:血友病(『人間革命』でこの件が描かれている昭和28年当時、治療法がなかった)
結果:一時的な症状の緩和(完治したとの記述はない)

事例2
対象:三歳の女児
疾患:交通事故による瀕死の重傷
結果:奇跡的な回復(後遺症の有無等の記述はない)

事例3
対象:暴力団幹部の男性
疾患:重度のモルヒネ中毒
結果:完治

事例4
対象:学会の男子部員(山之内俊彦)
疾患:鉄道事故による瀕死の重傷
結果:死亡(『人間革命』は「成仏の相」と記述)


 最後の事例以外、護秘符の服用により良い結果が得られたと『人間革命』は記している
が、不信心者の私から見れば、どうも胡散臭い。

 血友病の男児と交通事故の女児については、『人間革命』にはその後の記述がないため、
本当に治ったのか、後遺症はなかったのか不明である。

 両事例が仮に事実だったとしても、護秘符を飲んだのと同時期に、たまたま一時的に症
状が緩和だけに過ぎないのではないかと、疑わざるを得ない。特に血友病の場合、当時は
有効な治療法などなかったのであるから、その可能性は高い。

 『人間革命』では、都合のいい事実だけをトリミングして描き、奇跡的な回復があった
ように見せかけているだけではないかと思われる。 

 三番目の事例では、モルヒネ中毒が治ったとされている。これも本当なら喜ばしい限り
だが、私としては疑いの目を向けざるを得ない。

 モルヒネは極めて強い依存性を持ち、その中毒は薬物依存症の中でも、特に治療困難と
される。アルコール中毒などより、ずっと厄介な中毒なのだ。

 以前述べたように、戸田城聖のアルコール中毒は病膏肓に入るものだった。そして戸田
は、それが原因で肝硬変となり、命を落とした。

 護秘符で重症のモルヒネ中毒が治るのなら、なぜ戸田城聖のアルコール中毒は治らなか
ったのだろうか。

 前回引用したが『人間革命』第七巻によると、「信心がなければ護秘符の偉大な力も、
なんの役にも立ちません」と、戸田城聖は語ったとされている。

 モルヒネ中毒をも完治せしめるほどの「偉大な力」を持った護秘符で、アルコール中毒
ごときを治療できなかったのは、戸田二代会長には信心がなかったのか、あるいは、ただ
の食紅に過ぎない護秘符には、そもそも「偉大な力」などあるわけないのか、どちらなの
だろうか。学会員の皆さんに、どちらが正しいのか教えていただきたいものである。

 四番目の事例は、護秘符の力が及ばなかったのか死んでしまったわけだが、『人間革命』
では、事故死した学会員は「生けるがごとく微笑をたたえた崇高なまでの成仏の相」だっ
たなどと美化している。

 また、これを読んだ学会員が不信を抱かないようにするためか、転重軽受という教義を
持ち出して、被害者の死の正当化を試みている(転重軽受については、「創価学会の信心
の現証について」の補足において詳述した)。


>  戸田は、山之内俊彦の事故死を深く悲しんではいたが、その成仏については夢にも
> 疑うところがなかった。「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、
> 今生にかかる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候へば人・天・三
> 乗・一乗の益をうる事の候」という転重軽受法門の実証にほかならぬことを、心に秘
> めていたのである。彼は先業の重かった山之内を悲しんだが、純粋な信仰の実践によ
> って地獄の苦しみのぱっと消えたことを、永遠の生命のうえから確信していた。
 (『人間革命』第八巻より引用)

 ※ 『人間革命』の登場人物のほとんどは仮名だが、上記引用の山之内俊彦は実名だと
  いう(七里和乗著『池田大作・幻想の野望』による)。


 事故の犠牲者である男子部員は、先業(前世での罪業)が重く、来世で地獄に堕ちなけ
ればならなかったところが、信仰の実践のおかげで、現世で重苦(事故死)にあい罪業が
消え、成仏することができたとの確信を戸田城聖は抱いたと、上記引用は言っているので
ある。まったく、涙が出るほど有難いご利益である。

 冗談はさておき、証明のしようがないため、何とでも言うことができる前世や来世を持
ち出して、護秘符の効果がなかったことをごまかし、しかもそれを「転重軽受法門の実証」
などと言ってのける厚かましさには、唖然とせざるを得ない。

 創価学会員という人たちは、護秘符や護符を飲んで病気が治れば信心の功徳、治らずに
死ねば転重軽受で成仏できたのだ、というインチキ臭い説明に疑問を感じない連中なので
ある。カルト信者の知性の欠如を「実証」していると言えよう。

 また、これらの『人間革命』に記されている護秘符の使用例に、結核等の感染症がない
のは、批判を避けたいとの計算に基づくものではないかと考えられる。

 どんな病気であれ、マジナイに頼ってまともな医療を受けないのは好ましいことではな
いが、感染症の場合、適切な治療を受けなければ蔓延のリスクがあり、より問題が大きい。
もしそうなれば、社会問題にまで発展しかねない。

 前回述べたように、創価学会は護秘符やそのマガイモノの護符を、大々的に用いていた
ので、実際には感染症患者でも、こうしたマジナイに頼った学会員はいたであろうが、世
間から批判を受けることを懸念して、『人間革命』にはそうした事例は記さなかったので
あろう。

 『人間革命』に記されているような、信心すれば病気が治るという学会幹部の指導や、
護秘符などのマジナイに頼ることが、医療の軽視をまねいたであろうことは想像に難くな
い。そしてその弊害は、決して小さなものではなかっただろう。

 植村左内著『これが創価学会だ』に、著者が企画した、現職の学会幹部と脱会した元幹
部とによる座談会でのやり取りが掲載されている。その中に、この問題への言及があるの
で引用する。


 ※ ●▲…現職幹部、○△…脱会者(幹部といっても本部ではなく地域の幹部である)

> ○ 御符もね。本来は年一度のお虫払いに大御本尊の煤をはらうのに使った奉書を、
>  これを細かく切ったものでしたが、今はそれではとても需要に追いつかない。そこ
>  で、末法の本仏たる池田会長が、学会員のために特に題目をあげて祈った、慈悲の
>  奉書の切れ端が御符だと称している。
> △ 本当に祈ったのか、慈悲なのか、それも怪しいものですがね。池田会長に病気を
>  癒す力があるというんだから、創価学会の大仏法哲学は素晴しいわけだ。
> ○ 護秘符にしても、ちっぽけなロイド版に塗った食紅を、シキミの葉で水に溶かし
>  て飲めば万病に効くというんだからね。
> △ 病気が癒せないような信心は信心でないって、そのために、いったい何人の創価
>  学会員が、あたら生命を亡くしたことか。
> ○ 完全な社会悪ですし、立派な犯罪だよね、これは。医者にかかりさえすれば、当
>  然百パーセント癒っていたはずの、盲腸炎だとか、肺炎だとか、胃潰瘍だとか、そ
>  うした患者に対して御符を飲ませたり、護秘符を飲ませたり、題目をあげつづけた
>  り、医者の勧告を無視して強引に患者を殺してしまっている。
> ● そうした例は、それは全国的のものですか? わたしは、うちの地区だけが例外
>  で、……というのは、盲腸炎の組長が死んだのです。うちの地区だけかと思ってま
>  した。
> ▲ わたしの町でも、そうした例がありましたが、これは全国でもはじめてのことだ
>  と、そう思ってました。
> △ とんでもないことです。全国的に例がありますよ。

 ※ 『これが創価学会だ』では「護符」ではなく、「御符」と記述されている。学会の
  元教学部長である原島嵩氏は「護符」という記述を用いているので、「護符」の方が
  学会内部での正式な名称だと思われるが、あるいは時期によっては、「御符」という
  名称も用いられたのかもしれない。


 正気の沙汰とは思えない話である。創価学会の非科学的なご利益信仰は、時として人命
をも損ねる狂信なのだ。

 学会員がインチキなマジナイを信じて、そのために命を落とそうと自己責任だが、連中
は「唯一の正しい宗教」などと自称し、その狂信の害悪を社会にまき散らし続けている。

 「人はパンのみにて生きるにあらず」という。自然現象を合理的に説明する科学や、そ
の応用である医学や技術だけでは、人間は満たされないものであるらしい。

 科学技術が発展した現在においても、生きる「意味」や「目的」、あるいは心の拠り所
を求めて宗教に頼る人がいるのは、やむを得ないことだと思う。

 かつて、宗教の役割は社会全般に及んでいた。前近代の社会は、洋の東西を問わず宗教
社会だった。そのような時代においては、聖職者の祈りには現代の医療に相当する役割も
求められていた。

 前近代の医療行為では、瀉血や水銀化合物の頓服など、人体に有害なものも少なくなく、
それと比べれば御秘符などの宗教的なマジナイの方が、害がない分マシだったと評価でき
なくもない。

 しかし、医学の進歩により多くの病気が克服された現代に、護秘符や護符のような前近
代的マジナイ療法を行なうことで、適切な治療を受ける機会を信者から奪い、しかも恥知
らずにも「科学と調和した真の宗教」を僭称してきた創価学会は、有害なカルトとして断
罪されるべきである。



補足 モルヒネ中毒の暴力団幹部について

 冒頭で挙げた護秘符の使用事例の中で、実際には唯一の完治した例である暴力団幹部の
話は、なかなか興味深いものなので、『人間革命』第八巻の記述に基づき補足する。

 この男は「暴力団の中でも有力な、ある組の命知らずの大幹部」であり、「暴力と威圧」
を得意としていた。

 戦前、胆石を病んだ際に、その激痛を緩和するために医師からモルヒネを処方されたこ
とがきっかけで中毒となり、中毒が進むにつれてただのモルヒネでは効かなくなり、コカ
インを混ぜて打つまでに症状が悪化した。

 戦後、モルヒネ中毒を治そうとしたものの、今度はヒロポン中毒となり、その後またモ
ルヒネ中毒に舞い戻ったという。『人間革命』には、以下のように記述されている。


>  彼は、いつか手に入れた二度とは使用してはならないといわれる特殊な頓服の劇薬
> が忘れられず、枕元に日本刀やピッケルを置いて、家族の者たちを恐喝し、その入手
> を強制した。妻と娘は泣き泣き、その頓服を手に入れるよう奔走させられた。


 その後、この妻と娘は創価学会に入信したが、この男の中毒はさらに悪化し、意識不明
の昏睡状態に陥った。地元の学会幹部の勧めで、護秘符を服用させたところ、数十日の昏
睡の後に回復し、禁断症状も薄らいだという。

 『人間革命』には、しばしば医師の診察を受けていたことも記されているが、治療につ
いての詳細な記述はなく、深刻な容態からの回復は、あくまでも護秘符の効果であったか
のごとく印象づけられている。

 護秘符のご利益に感じ入ったのか、この男も創価学会に入信し、大石寺にも参詣した。
そして完全に更生し、熱心な信者になったとされる。


>  彼の人を人とも思わぬ性癖は、今、親切な粘り強い行動として大いに役立つことに
> なった。彼は、家族のなかで一番の活動家となっていた。一家は、みるみる春風と笑
> 顔が絶えない家庭革命された一家になっていった。病床から起き上がって、五か月の
> 間に、彼は実に五十二世帯の人びとを折伏したのであった。


 この話は一見すると美談のようだが、はたして文字通りに受け取っていいものだろうか。
 この男がなし遂げたという、五か月で52世帯の折伏達成が、どのようにして行われたの
か、詳細な記述は『人間革命』にはない。

 しかし、元暴力団の大幹部で「暴力と威圧」を得意とし、つい数か月前まで日本刀を振
り回すヤク中患者だった男から、「親切な粘り強い」折伏を受けるなど、恐怖以外の何も
のでもなかったのではないだろうか。

 このエピソードは、往時の創価学会の折伏がどのようなものであったか、その一端をう
かがわせるものだと思う。

2017年5月18日木曜日

紙を飲む宗教①

 『人間革命』第七巻(昭和28年頃を描く)に、「護秘符」なるものが登場する。
 血友病の幼子を持つ母親から相談を受けた戸田城聖が、医者で治らぬ病気は信心で打開
するより他ないとして、日蓮正宗総本山の法主に、この護秘符を特別に申請したのだとい
う。当該場面を以下に引用する。


>  母と子を見守りながら、戸田は更に激励を与えたが、ふと思いついたようにいった。
> 「あなたは、真面目に信心してきたようだ。私にはそれがわかるのだよ。特別に護秘
> 符をお願いしてあげよう。しかし、信心がなければ護秘符の偉大な力も、なんの役に
> も立ちません。今、私にはどうしようもないが、ここで約束して欲しいことは、生涯
> にわたって絶対に退転などしないということです。それさえ覚悟があれば、あとは必
> ず妙法の力によって、何らかの実証が厳として出てくるだろう」
> 「はい、わかりました。ありがとうございます」
>  母親は立って、深々と頭を下げた。
>  戸田は護秘符の由来を説き、日蓮大聖人が御母の重病の折り、最初の護秘符によっ
> て救い、すでに終えるべき寿命を四か年延ばしたことから、これが代々の猊下に相承
> され、日蓮正宗の秘法とされているものであることを説明した。そしてその使用法を
> 教え、彼自らが願主となって、総本山の猊下に下附の手続きをとってあげるのだった。
> 「後で必ず報告をしなさい」
>  母親はいくたびも礼を繰り返して去っていった。
>  報告は数日後にきた。――指導通りに護秘符をいただいた翌朝、出血は完全に止ま
> っていた。血の気を失っていた子供の頬には、うっすらと赤味さえさしていたという
> のである。


 この記述では、一時的に血友病の症状が緩和したことになっている。だがこの件に関し
ての『人間革命』の記述はここまでで、その後この親子は登場せず、完治したという記述
があるわけではない。

 また、護秘符が具体的にどのようなものであるかや、その使用法についての詳しい説明
は、『人間革命』全12巻を通して存在しない。

 幸いにして、『聖教新聞』に掲載された護秘符の使い方を引用している書籍を見つける
ことができたので、そこから孫引きする。


>  護秘符の取り扱いについて、「聖教新聞」は初心者への注意を喚起している(一九
> 五四年七月十一日付、同十八日付)。
>  それによると使用法は次のようである。
>  「護秘符の頂き方は、護秘符とシキビの葉を、水を半分位入れた湯呑み茶わんに入
>  れ、御本尊にお供えし、方便品、寿量品を上げ御題目を数多く唱えて勤行し、終っ
>  てシキビの葉で護秘符の表面の紅様のものをこすって水にとき、落してその水をい
>  ただくのである」
 (七里和乗著『池田大作・幻想の野望』より引用)


 植村左内著『これが創価学会だ』によれば、上記引用中の「紅様のもの」とは食紅だと
いう。つまり護秘符の正体は、食紅なのである。

 日蓮正宗を信仰している人にとっては、護秘符は〝有難くも御法主上人猊下の祈りが込
められた日蓮大聖人以来の秘法〟であろうが、そうでない者にとっては、ただの食紅を儀
式めいた所作で飾り立てただけの、非科学的なマジナイに過ぎない。

 信じている者が飲めば、プラシーボ効果くらいは期待できるであろうが、ただの食紅に
それ以上のことは望み得ない。害があるものではないことが、せめてもの救いである。

 近代的な医療が存在しなかった時代の人々が、このようなマジナイにすがったのは致し
方ない面もあったと思う。

 上述の血友病の子をもつ母親についても、昭和28年(1953年)当時、血友病の有効な治
療法は存在しなかったことから、藁にもすがる思いでこうしたマジナイに頼ったのであろ
うから、それを批判するのは酷というものだろう。

 だが、創価学会が『人間革命』を通じて、このようなマジナイを宣揚していることには
賛同できない。

 確かに血友病のように、かつては医学的な治療法が存在せず、怪しげなマジナイや民間
療法にすがるしかない難病も少なくなかった。しかし、その血友病患者も現在では、遺伝
子組み換え製剤により、健常者とほぼ変わらない日常生活を送れるようになっている。

 創価学会は、科学の進歩が難病の治療を可能にしつつあった時代に、あえて時代の流れ
に逆らい、非科学的なマジナイ療法を大々的に推進していたのだ。

 しかも『人間革命』第七巻には、「科学と真の宗教は、決して相反するものではない」
とか、「われわれの哲学は、共産主義や資本主義と相並ぶ同格の哲学ではありません。こ
れら世界の一切の科学を指導する、最高にして、しかも未来の哲学であります」などとい
う、ふざけた記述が存在する。

 どう考えても創価学会の本質は、護秘符に典型的にみられるように、非科学的ご利益信
仰でしかなく、前近代の遺物を現代社会に強引に持ち込もうとする、狂ったカルト以外の
何ものでもない。

 しかも、この護秘符には他にも問題点が存在する。
 実は日蓮正宗では、「護秘符」ではなく「御秘符」と書くのが正式である。

 それにもかかわらず、『人間革命』では一貫して「護秘符」で通している。これは以下
に説明するように、意図的な誤字である。

 日蓮正宗の「御秘符」は、大石寺法主が特別な祈祷をして作るものであり、しかも信徒
がこれを飲むだけでなく、大石寺でも大御本尊に病気平癒を祈念するというものなので、
誰でも簡単にもらえるわけではない。

 一方、創価学会はこの「御秘符」を、あたかもどんな病気でも治るかのように宣伝した
ので、次第に欲しがる者が増え、不足が生じた。

 そこで創価学会では、「護符」と称するマガイモノを作るようになった。これは大石寺
の虫払い法要の際に、大御本尊を拭った和紙を法主から下賜されて、それを細かく切り刻
んだものだと、創価学会は説明していた。

 『人間革命』において「御秘符」を「護秘符」と記述し、その具体的な使用法について
の記述を避けているのは、「御秘符」とそのマガイモノである「護符」との混同を生じせ
しめるための作為なのだ。

 かつての創価学会では、この「護符」をことあるごとに飲んだ。世間一般から「紙を飲
む宗教」と言われ、気味悪がられたのも当然である。創価学会在籍時に教学部長を務めた
原島嵩氏が、「護符」の濫用ぶりについて述べている記事から引用する。


>(前略)さらに不思議なことは、その量たるや、膨大であり、とうてい猊下よりご下賜
> いただいたという枚数で足りるとは思われません。池田氏が、各地の集会で『本日は
> 全員に護符をさしあげます』というと、会場内はワアッと歓声があがったものです。
> それが大集会ともなれば、会場の参加者の数もたいへんです。私も参加者をかきわけ
> るようにしてこれを配って歩いたことがあるだけに、今となれば、恐ろしくさえなり
> ます。
 (七里和乗著『池田大作・幻想の野望』より引用〔孫引き〕
     初出『週刊サンケイ』1980年11月6日号)


 大石寺の虫払い法要で、大御本尊の清掃に使った和紙だけでは、上記引用のような膨大
な需要をまかなうのは無理である。そこで「池田先生が題目をあげてくださった奉書」を
5ミリ角に切ったものが用いられるようになったという(植村左内著『これが創価学会だ』
による)。

 本来の御秘符ならば、包装されていた食紅を水に溶いて飲むだけなので、毒にも薬にも
なるまいが、誰がさわったかもわからない紙切れを飲むのは、かなり不衛生である。

 池田大作は贅沢な食事ばかりとるので、でっぷりと肥え太り、彼が鏡や机にさわると、
冬でもベットリと皮脂がついたという。その池田大作が、手ずから仏壇に奉り題目をあげ、
それを誰とも知れぬ人が切り刻んだ紙切れを飲むなど、私なら絶対に御免こうむりたい。

 以上みてきたように、創価学会は日蓮正宗の秘伝であるらしい「御秘符」なるマジナイ
療法を宣伝し、その宣伝を信じた愚昧な信者たちに、「護符」と称してより不衛生にした
だけの劣化コピー(要はただの紙切れ)を飲ませ、さらにその欺瞞に学会員が気づかない
ように、「御秘符」を「護秘符」と表現することで、あたかも「護符」は「護秘符」の略
称であるかの如き、誤解・混同を生じせしめようとしてきたのである。

 こんなインチキなマジナイを広めてきた創価学会は、相当に問題があるが、それを有難
がってきた学会員もどうかと思う。

 20世紀はペニシリンの発見を嚆矢として多くの抗生物質が開発され、遺伝のメカニズム
が解明されるなど、科学が大きく進歩した時代だった。

 その成果として、結核や血友病、ハンセン病など、難病とされてきた感染症や遺伝病の
治療法が開発され、天然痘は根絶にまで至った。

 医学の進歩が大きな成果を上げつつあったのと、まさに同じ時代に創価学会は「護(御)
秘符」や「護符」などという、前時代的な呪術を喧伝し、そして同じ口で「世界の一切の
科学を指導する」などと、世迷言を抜かしていたのだ。

 創価学会は、科学と調和する「真の宗教」などでは断じてない。ただの頭がおかしいカ
ルトに過ぎない。もちろん、非科学的なマジナイであろうとも、それを信じるのは個人の
自由である(感心はしないが)。

 だが、非科学的な呪術療法を20世紀後半にもなってから広め、実践してきた創価学会が、
「科学との調和」などという綺麗事をいくら口にしても、それを真に受けるのはよほどの
愚か者だけであろう。

2017年5月16日火曜日

『人間革命』と結核

 かつて結核は「国民病」ともいわれ、不治の病として最も恐れられた感染症だった。特
に終戦後の数年間は、結核は日本人の死亡原因の第一位だった。
 物資の欠乏による栄養不良が、感染症の蔓延を引き起こしたのである。

 この時代を背景として描かれる『人間革命』にも、結核について描かれている。この小
説の主人公である戸田城聖も、表向きは著者ということになっている池田大作も、結核を
病んだことがあるので当然であるが(これまで何度も述べたが、『人間革命』の本当の執
筆者は篠原善太郎氏である)。

 『人間革命』における結核は、信心の功徳により克服されるものとして描かれている。
例えば第三巻には、昭和23年1月31日に座談会で折伏を受け、入信した夫婦について以下
のように述べられている。


>  入信した山川夫妻にも、初信の功徳は歴然とあらわれた。それは、きよのの結核で
> ある。四年まえの大喀血いらい、年一回は医者を恐怖におとしいれるような大喀血を
> 繰りかえし、特異性体質の患者として、再起不能とまでいわれていたのが、入信十日
> もたたないうちに、一日中起きていられる体となった。それと同時に、長年の神経痛
> や、膀胱炎まで癒っていたのである。生命に実感として味わった信仰の功力と、その
> 喜びに、一家も楽しく真剣に唱題していった。


 これが事実であれば、大いに結構なことである。だが当時、結核の症状が改善していた
のは、創価学会の入信者だけだったのだろうか。

 戦争終結により物資の欠乏が改善されたことや、保健所からの栄養指導を受けて、食事
からとる栄養が以前よりも改善したことにより、病気への抵抗力が強まった人は少なくな
かったはずである。

 ※ 戦後まもない時期は、栄養失調等の問題が深刻だったため、保健所が効果的な栄養
  のとり方や調理法についての指導を、積極的に行っていた。

 栄養状態の改善による病気からの回復を、「信心の功徳」と解釈することも、個人の内
面の自由ではあるが、それは客観的に検証可能な事実とは、峻別されるべきであろう。

 そして何より、当時の日本では国民病である結核の克服に向けて、占領軍の支援の下、
国家的な取り組みがなされていた。その恩恵を受けた結核患者も少なくなかったはずであ
る。公益財団法人結核予防会結核研究所が公表している資料「わが国の結核対策の歩み
から、当該部分を引用する。


>  占領軍総司令部は結核を含め感染症対策の推進は自国の将兵の安全のためにも必要
> だったため,積極的に指導と援助を行い,公衆衛生対策が強力に進められた。1947
> (昭和22)3月には結核の届出規則を改正,結核のすべての病類の届出を義務づけ,
> 翌年にはBCGを含む予防接種を法制化し,BCGは生後6ヶ月以内と,30歳になる
> まで毎年,ツ反応陰性者には接種することとされた。
>  抗結核剤SMは1944年に開発されたが,わが国に入ったのは1948(昭和23)年12月,
> GHQ(連合軍総司令部)がSMの菌株を厚生省に渡し生産を進めるよう指示し,こ
> れが軌道に乗るまでの分としてSM200kgの供与を受けてからである。これにより患
> 者発見,治療,管理,予防のすべてが一応揃ったが,①それぞれ別の法律によって施
> 行されていたので一本の法律で統一的に実施することが望まれた。②しかもこれらの
> 方策の多くはわが国の研究者が30年以上かけて築き上げてきた成果に基づいて構築さ
> れた。③1947(昭和22)年の保健所法の改正により,結核行政を厚生省から保健所ま
> で一貫して実施する体制も出来ていた。(以下略)

 ※ 引用中の“SM”とは、結核菌に効果のある抗生物質ストレプトマイシンのことである。
  ストレプトマイシンは1944年に開発され、その功績に対し1952年のノーベル生理学・
  医学賞が贈られている。


 まさに国家プロジェクトとして、結核対策が進められていたわけであるが、中でもそれ
まで有効な治療法がなかった結核に対して、ストレプトマイシンという治療薬が登場した
ことは重要である。ストレプトマイシンはその後、昭和26年(1951年)には保険適用対象
となり、同年10月からは公費負担の対象となった。

 『人間革命』では、小説の舞台となった戦後まもない時代の国際情勢、経済事情、社会
問題等の世相について、かなりの紙幅を割いて説明している。

 しかし、奇妙なことに当時の日本国民の一大関心事であったはずの結核対策や、暗い世
相の中において、輝ける希望ともいえる結核治療薬ストレプトマイシンの発見・普及につ
いては、まったく触れられていない。「信心の功徳」による病気平癒の記述は、事欠かな
いにもかかわらず……。

 上記の第三巻からの引用は、ストレプトマイシンがもたらされる以前のことではないか、
と反論される方もおられると思われるので、より後の時期を描いた第十巻からも引用する。


>  昭和二十八年九月のある日、彼女の住んでいた会社の寮に、従弟がひょっこり訪ね
> てきた。彼は永年の結核重症患者である。
>  その彼が、元気な血色でにこにこしながら、突然現れたのである。彼女は彼の出現
> が信じられなかった。
> 「まあ、どないしたんや」
>  彼女の驚愕は、彼の話を聞いて、さらに深まった。
> 「姉さん、この信心はすごいんや。信心で僕の結核が綺麗さっぱりと、こないに治っ
> たんや」  
> 「そんなこと、世の中にあるのん?」
> 「あるもないも、このとおりや。僕ばっかりやないで。姉さん、まあ聞いて」
>  従弟は座談会で聞き知った、多くの人びとの体験を、つぎつぎと語った。
>  麻田の驚愕は、強い好奇心に変わった。半生の看護婦の体験から、結核重症患者の
> あわれな末路を知りすぎるほど知っていたからである。

 ※ この後、この看護婦は創価学会に入信したとされている。


 この場面では、看護婦である麻田という女性のもとにその従弟が訪れ、創価学会に入信
したことで結核が治ったと告げているわけだが、描かれている時期は昭和28年(1953年)
であることに注目されたい。

 前述のように、昭和26年(1951年)にはストレプトマイシンは保険適用対象となり、広
く結核治療に用いられるようになっていた。その成果は大きく、昭和25年まで死亡原因一
位だった結核が、26・27年には二位になり、28年には五位にまで後退した(厚生労働省
人口動態統計年報」による)。

 看護婦を務めていた人物が、ストレプトマイシンをはじめとする化学療法の成果を知ら
ない方が不自然である。この話が事実であるとしたら、麻田という看護婦はよほど暗愚な
人物なのであろう。

 結核から回復した元患者は、当時ありふれていた。その理由は、何かの宗教に入信した
ことによるご利益などではなく、医学の進歩や保健医療体制が整備されたことである。

 『人間革命』第十巻には、池田大作(作中では「山本伸一」)による病気で苦しむ学会
員への指導も描かれているが、そこでも適切な医療への言及はない。


>  また別の質問がつづいた。
> 「肺病が治りまっか?」
> 「この私も肺病だったのですが治っています。御本尊にしっかりと唱題し、リズム正
> しい生活をし、栄養をとれば、肺病くらい治らないわけはない」

 ※ 言うまでもないが、この当時「肺病」といえば結核のことである。


 確かに結核といえども、十分な栄養を取り、健康管理に気を配れば自然治癒することは
少なくない。化学療法が普及する前は、そうするより他に治療法はなかったのも事実であ
る。だが、効果の高い治療薬が普及したのであれば、医療も重視すべきではないか。

 なんとなれば、結核は感染症であり、自分さえ治ればよいというものではない。仮に自
分が助かったとしても、抵抗力の弱い子供や老人などにうつしてしまえば、死に至らしめ
てしまうこともあり得るのである。『人間革命』の記述は、無責任極まりない。

 『人間革命』には、医療を軽視する記述があるわけではないし、創価学会にも、エホバ
の証人の輸血拒否のような、明確に医療を否定する教義があるわけでもない。

 しかしながら、『人間革命』において、結核治療に関する医療の進歩についての記述が、
不自然なほどに欠落していることから明らかなように、創価学会が医療を軽視しているこ
とは明白である。

 創価学会においては、「病気になるのは信心がおかしいから」という指導が、池田大作
以下、幹部によってなされてきたため、学会内部では、病気になってもそれを正直に言い
だせない空気がつくられてきた。

 これは決して過去の話ではない。現に池田大作は、平成22年(2010年)以降、何年も姿
を見せることができずにいる。池田自身が「病気になるのは信心がおかしいから」と言い
続けてきたため、病気やその後遺症で苦しんでいる姿を見せると、学会員を動揺させる恐
れがあるからであろう。

 創価学会は「真の宗教は完成した科学」などと主張し、唯一の「真の宗教」を自称して
きた。しかしてその実態は、医学の進歩という科学技術の成果を軽視する、非科学的なご
利益信仰に過ぎない。

 創価学会が実際にやっていることを見れば、霊感商法と何も変わらない。「財務をする
と倍になって福をもたらす、ガンなどの病気も治る」とか、「『聖教新聞』は池田先生か
らのお手紙だから、何部も購読すれば功徳がある」とか、全部何の根拠もない与太である。

 誤解のないよう申し添えるが、私は「病は気から」という昔からの言い習わしを否定す
るものではない。偽薬にも一定の効果がみられることが知られているように、気の持ちよ
うは、病気の治療においても大切である。

 その意味では、病魔に立ち向かうにあたって、信仰を心の支えにすることは決して悪い
ことではないだろう。だがそれは、適切な医療や健康管理がなされることが前提である。
信仰への偏った思い入れが、医療行為の軽視をまねくことは、治療にとって有害無益であ
ることは言うまでもない。

 また、診療にかかる代金をはるかに上回るような、高額のお布施や祈祷料、「財務」な
どを要求するような宗教は、インチキ宗教として糾弾されるべきである。

 『人間革命』が、結核が死亡原因第一位だった時代、そしてその結核を医学の進歩が克
服しつつあった時代を舞台とし、しかも作中に結核患者を何人も登場させておきながら、
ストレプトマイシンの発見・普及について何も言及していないことは、創価学会がいかに
非科学的で、前近代的な集団であるかの傍証といえよう。

 『人間革命』の非科学性は、これにとどまるものではない。今回は重要な医学の進歩に
ついての記述がない、という消極的な面を指摘したが、次回は創価学会が非科学的なイン
チキ宗教であるという、確証を挙げて論じる予定である。

2017年5月14日日曜日

アル中・戸田城聖

 NHKの番組と民放各社のそれとの大きな違いの一つとして、『NHKスペシャル』に
代表される硬派ドキュメンタリーの存在が挙げられる。

 NHKのドキュメンタリー番組の嚆矢は、昭和32年(1957年)11月から放送された『日
本の素顔』と題されたシリーズだった。

 その第一回「新興宗教をみる」では創価学会も取り上げられ、大石寺で行われた戸田城
聖の法華経講義の模様が放送された。

 その撮影当日、控室の戸田のもとに挨拶に出むいた同番組のディレクター・吉田直哉氏
が、会見の模様を著書に記している。


>  幕あきは教祖であった。
>  飛ぶ鳥も落とさんばかりに強勢を拡大している新宗教の会長が、森羅万象を映像化
> しようと志した私の、最初の対象だったのである。
>  そして、想像もしなかったことばかりが起きた。
>  「グイッとあけな。グイッと」
>  「……いえ、これから撮影……。仕事中ですから」
>  「なにィ? それを言うなら、こっちだって仕事中だぞ」
>  黒ぶちの眼鏡の奥からにらまれ、これはからまれる、と確信したがコップを手にす
> るのも勇気が要った。尋常ならぬ量のウィスキーなのだ。
>  こんなに荒っぽい飲みかたは見たことがない。角ビンのウィスキーを大ぶりのコッ
> プのふちまでドクドク注いで、申し訳のようにほんの少しのビールを垂らして割って、
> 机の上に溢れさせるのだ。その濡れた机の上を、波を立てるようにさらにコップを押
> してよこして、飲め! とこんどは大声の命令である。
>  縁側の籐椅子にただひとり坐って、親の仇のように矢つぎばやに酒をあおっている
> のは、創価学会第二代会長となって六年目の戸田城聖氏。
 (中略)
>  そうこうするうちに屈強な若い人が呼びにきて、戸田氏は立ちあがった。ネクタイ
> は右の肩の上にはね上がり、ズボンは下がってシャツの裾が半分以上出て、みるから
> に酔漢の姿である。
>  何によらず、この姿を克明に捉えることが肝要だと、先まわりするため私は講堂へ
> 走った。
 (中略)
>  気になったのは、ひっきりなしに病人が運び出されていることであった。担架もあ
> ったが足りないらしく、戸板が使われていた。その上に乗せられ、身をよじったり痙
> 攣したりしている人を、青年たちが運び出すのと次つぎにすれちがった。もともと病
> 人なのか、薄暗い会場の異様な熱気で気分がわるくなるのか、舞踏病のような症状の
> 人が続出しているのである。
 (中略)
>  もっと演台ちかくにカメラを据えさせてくれ、いや絶対駄目だ、と押し問答をして
> 何の対策も立てられないでいるうち、左手から戸田会長が登場してしまった。
 (中略)
>  そして、演台にたどり着いて両手を突くなり、いきなり「説法」ははじまったので
> ある。
>  「おろかものが!」
>  開口一番の獅子吼が、この言葉であった。
 (中略)
>  しかも、戸田会長はそれきり口をつぐんで虚空をにらみ、一言も発しない。
>  気まずい沈黙の時間が流れてゆく。きこえるのは、いやにかん高いカメラの回転音
> だけ。このカメラはゼンマイが動力で、十五秒ごとにネジを巻かなければならないの
> である。
>  身動きもせず何も語らない人を写して、十五秒が過ぎた。カメラが停止したから、
> あかりを消す。とたんに、
>  「このオレが、病気もなおらん信心をすすめると思うとるのか!」
>  大音声である。病人が続々と戸板で運ばれた。その姿を見て、功徳を疑う心が胸を
> よぎったのではないか? おろかものが! という論旨であった。
 (吉田直哉著『映像とは何だろうか』より引用)


 『人間革命』などの創価学会の出版物では語られることはないが、外部のジャーナリス
トや学者が戸田城聖について論じた書物では、ほぼ必ず言及されているのが、その常軌を
逸したアルコール中毒ぶりである。

 戸田は常に酒を手放さず、治安維持法違反で入獄していた期間をのぞいて、29歳から毎
日欠かさず酒を飲み続けた。『人間革命』にも、戸田が酒を飲む場面は何度も描かれてい
る(さすがに酔って醜態をさらす場面は、書かれてはいないが)。

 講義や座談会の際も、酒を飲みながら行うことがしばしばであった。上記引用に見られ
るように、酩酊して言葉につまったり、時には完全にへべれけになって、何を言っている
のかわからないこともあったという。

 しかも『人間革命』第八巻によると、戸田は青年部に対して禁酒令を出していたという。
理由は酒のために「月給をつかいはたして、生活に困る」かららしい。

 アル中から「酒を飲むな」と言われても、まったく説得力がないし、戸田の酔態をたび
たび目にしていた学会員たちが、この禁令を真に受けたかどうかもあやしいものである。

 このような言動不一致もはなはだしい禁酒令は、自らの権威を失墜させただけではない
のだろうか。実際、『人間革命』第七巻に、水滸会という男子部の会合に出席した大学生
が、戸田を侮るかのように酒についての蘊蓄を話し続け、激怒させたとの記述もある。

 戸田城聖は、昭和33年(1958年)4月2日、日大病院で死去した。死因は肝硬変による心
臓衰弱だった。酒が戸田の寿命を縮めたことは明白である。

 創価学会は、「金が儲かる」「病気が治る」という現世利益を打ち出して、信者を獲得
してきた。『人間革命』第五巻には、昭和27年4月7日の立宗七百年記念春季総会において、
「大酒飲みが入信によってとまった」という体験発表があったと記述されている。

 しかし、創価学会の会長である戸田城聖のアルコール中毒は治らなかった。そもそも創
価学会の信心には、酒飲みを治す功徳などないのか、それとも戸田には信心がなかったの
であろうか。

 創価学会は強引な勧誘により、多くの信者を獲得してきたが、一方では退転者も少なく
ない。『人間革命』にも、学会に入信し御本尊を受けとったものの、後に幹部が様子を見
に行ってみると、本尊を焼いてしまっている例もあったと記されている。

 本尊を焼いたのは、学会による謗法払いに対する意趣返しという意味合いもあろうが、
生き仏のように言われている戸田会長を、学会の集会等で目にし、その戸田は実際には昼
間から酒を飲んで講演するようなアル中であること知って、幻滅のあまり信仰心を無くし
た者も、相当数いたのではないかと思われる。

 非難がましいことばり書き連ね、公平性を欠くことになるのも好ましくないので、戸田
が酒をたしなんでいたことが、役に立った事例も書き記しておく。

 彼自身、酒飲みだけのことはあって、酔っ払いの扱いについてはよく心得ていたようで
ある。『人間革命』第四巻によると、座談会に闖入した酔っ払いと喧嘩になり、負傷した
幹部に対して、戸田は次のように指導したという。

> 君、まず座談会に酔っぱらいなぞ決して入れないことだ。

 何をかいわんや、である。



補足1 創価学会の教義におけるアルコール中毒の位置づけ

 創価学会の教義では、人間の境涯を一番上の「仏界」から一番下の「地獄界」までの十
段階に分類している。『折伏教典』の初版では、そのうち下から二番目の「餓鬼界」に、
アルコール中毒患者を含め、以下のように説明している。

> 餓鬼界―下級労働者、衣服住居等まではとても手が廻らず毎日毎日の生活が食を得る
>  為に働いて居るという様な人々。アルコール中毒になって酒が無ければ生きて行か
>  れぬといった人間、金をもうける為には手段を選ばぬという拝金主義者、其他何ん
>  でも目についたものが欲しくてならぬという様な性格異常者。

 戸田城聖はかつて、「キリスト教によって救われたとしても、せいぜい天界までが限度
で、稀に菩薩界になる」(『人間革命』第七巻)と語ったことがあるという。

 それに習って言うならば、「創価学会によって救われたとしても餓鬼界までが限度」と
いったところであろうか。

 池田センセイは、「師が、例え地獄にゆこうと、勇んで、地獄にゆくことこそ、真の師
弟だ」と、かつて語っておられた。池田センセイが強引な金集めに励まれたのは、師と同
じ餓鬼界の境涯であろうとする、師弟不二の実践だったのではあるまいか。

 また、熱心な学会員の中には、高額の財務やマイ聖教のために生活を切り詰めるという、
餓鬼界の境涯に自ら堕ちている方もおられるが、それも「永遠の師匠」との師弟不二の実
践なのだろう。まことに麗しい師弟愛である。


補足2 『映像とは何だろうか』について

 誤解のないよう申し添えるが、この本は創価学会を批判するものではない。著者の長年
にわたるNHKでのドキュメンタリー制作や、大河ドラマの演出の経験を踏まえて、「映
像とは何か」について考察したものである。

 創価学会や戸田城聖について触れられているのは、冒頭のごく一部だけである。著者が
戸田の逸話を記した理由は、ドキュメンタリーの撮影では予想外のことが起こることがま
まあり、現場で〝これを視聴者に伝えるべきだ〟と思ったことを、必ずしも映像化できる
とは限らないと訴えたいがためのようである。

 また、初めてのドキュメンタリー撮影で、仰天するような事実を目にしながら、それを
映像で視聴者に伝えられなかったことへの悔恨から、せめて活字で伝えたかったのかもし
れない。

 同書は岩波新書として刊行されている。一読の価値はある本だと思う。だが、繰り返す
が創価批判本ではないので、本稿を読んで購入を思い立たれた方は、ご留意いただきたい。

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2017年5月11日木曜日

戸田城聖のビジネス(戦後編‐③)

 ※ 承前 戦前・戦中編 戦後編‐

 昭和25年(1950年)秋、戸田城聖は新たな金融会社・大蔵商事(『人間革命』では「大
東商工」)を設立する。戸田はこの会社のオーナーだったが、東京建設信用組合(『人間
革命』では「東光建設信用組合」)の破綻に伴う責任追及を受けている身であったため、
顧問という一歩引いた立場で関与した。

 新会社の社長には和泉覚をあて、専務理事には愛人の森重紀美子、営業部長には池田大
作が就任した。『人間革命』には、山本伸一こと池田の営業部長就任は述べられているが、
和泉や戸田の愛人については何も述べられていない。


>  新設の大東商工株式会社も細々と回転しはじめたが、残った社員は伸一ほか戸田の
> 親戚の二、三名にすぎなかった。二十二歳の伸一は、営業部長という重責におかれた。
> 信用組合の清算事務を急いでいたが、大蔵省の心証は、まだ必ずしも芳しい状態では
> なかった。
 (『人間革命』第四巻より引用)


 しかし、年が明けた昭和26年(1941年)、大蔵省からの責任追及はやみ、取り立てに関
するトラブルでの刑事告訴も、起訴には至らなかった。東京建設信用組合は、同年3月11日
を持って解散し、その債務は戸田個人が負うことになった。

 私は数冊の関連書籍をあたったのだが、戸田がどのような手段で法的責任を免れたかを、
記載しているものはなかった。
 一方、『人間革命』では、以下のようなふざけた説明をしてる。


>  国法による法律的制裁が、まったく不可避のものとして、あれほど絶望的な様相を
> おび、戸田城聖の一身にふりかかろうとしていたのだ。国家は法律の適用を曲げるこ
> とはできない。戸田よりも、顧問弁護士たちが匙を投げていた事件である。では、な
> にがそのような幸運な決定をもたらしたのか。――戸田には、いまそれが、はっきり
> と解っていた。「無量義は一法より生ず」――最高の因果の法則は仏法である。一切
> の因果の法則の根本は仏法にある。したがって、「仏法、かならず王法に勝れり」と
> いうことの確かな顕証を、戸田は身をもって知ったといってよい。日蓮大聖人の仏法
> のすごさは、戸田を救ったが、また同時に彼の使命の重大さを警告したものとも思え
> た。
 (『人間革命』第五巻より引用)


 『人間革命』では、この件により、「仏法、かならず王法に勝れり」との確信を持ち、
「使命の重大さ」を自覚した戸田は、創価学会第二代会長への就任を決意したと述べられ
ている。

 前回引用したが、戸田は信用組合の債権者に対し、平身低頭して「生きている限り、必
ずこの戸田が誓って全部返済します」と言ったにもかかわらず、その債務は、組合解散の
二年後に三割返済で清算された(このことは『人間革命』には書かれていない)。

 被害者から見れば詐欺同然の借金踏み倒しであるが、それを「日蓮大聖人の仏法のすご
さ」だというのが『人間革命』の見解である。踏み倒しの件を踏まえて上記引用を読めば、
創価学会のいう「仏法」がいかなるものであるかは、おのずと明らかであろう。

 この頃、戸田城聖は、立正佼成会、成長の家、天理教といった他の新興宗教の成功を参
考にしつつ、彼のこれまでの事業経験をもとにした、新たな事業の着想を得たようである。


>  彼は信用組合が営業停止命令を受けたとき、「ぼくは経済戦で敗れたが、断じてこ
> の世で、負けたのではない」といったという。確かに、再起不能なまでに信用も資金
> も失った戸田は、この世で負けたのではなかった。ふつうの事業であくせくする必要
> は最初からなかったのだ。彼は立正佼成会がその成功を例示している新事業、そして
> 「信者を三十人集めれば食っていける勘定の、ベラぼうに高収益のあがる商売」(大
> 宅壮一)である教団指導者業にすぐ転進すべきだったし、また彼には、逆転勝利への
> 道はそれしかなかった。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 これ以降、戸田は創価学会を事業と表裏一体のものとして活用していく。つまり、創価
学会の会員を、自らの事業の顧客とするシステムをつくりあげたのである。
 この当時の主な出来事を時系列順に列挙する。


 昭和26年4月 『聖教新聞』創刊(旬刊 編集主幹:石田次男)
     5月 戸田城聖 創価学会第二代会長就任
     7月 財務部員制度創設
     10月 宗教法人創価学会の設立を東京都に届出
     11月 『折伏教典』発行
 昭和27年4月 『日蓮大聖人御書全集』発行
     8月 東京都知事から宗教法人として認証 
 昭和28年春頃 東洋精光(『人間革命』では「大洋精華」)の経営権取得


 この頃確立された、宗教と出版業と金融業を三位一体とするビジネスモデルが、戸田城
聖と池田大作に経済的成功をもたらした。

 戸田は〝創価学会は金のかからない宗教〟と標榜し、貧しい会員からは会費を取らない
ことで、他の新興宗教を「カネ取り宗教」と批判して差別化を図った。

 その一方で、出版業の経験を活かして新聞を発行するとともに、『御書』や『折伏教典』
などの宗教書を出版し、それと並行してその読者となる学会員も増やすという戦術を取り、
信者の増加が増収増益に直結する仕組みを創価学会にくみこんだ。

 要するに、会費を取らない代わりに新聞購読料を徴収し、書籍を売りつけるビジネスモ
デルを採用したのである。これは一面では、生長の家のビジネスモデル――『生命の実相』
などの教祖の著書を、信者に売りつけるというもの――を真似ているともいえる。

 学会組織を利用したビジネスの中でも、その当時の稼ぎ頭は大蔵商事だった。その概要
を、池田大作の一年ほど後に入信した後輩であり、古参の学会幹部として後に都議会議員
を務めた藤原行正氏の著書から引用する。


>  象徴的なのは出版業や正規の金融業ではパッとした働きのなかった池田が、このカ
> ネ貸しではめざましい働きを見せたことである。池田は小金を貯めていそうな学会員
> の家を訪ね回った。各家に図々しく上がりこんでは「戸田先生の苦境を助けるため」
> 「学会のため」などと言葉巧みに話を持ちかけ、カネを集めた。その時、池田が誇ら
> しげに持ち歩いた名刺の肩書は「大蔵商事営業部長・池田大作」となっていた。
>  大蔵商事の業務内容は、利ザヤ稼ぎだった。学会員、あるいはその知り合いから月
> 三分の利子をつける条件でカネを集め、右から左へ月七分の利子で融資。また、手形
> は一割で割り引いてその利ザヤを稼いだわけである。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 『聖教新聞』にも「資金の融通は大蔵商事」という広告が掲載されていたことから、同
社の主要な取引相手が学会員だったことは確かであろう。

 池田大作は、金については特殊な感覚を持っていたという。藤原氏は、池田の仕事に同
行した際の経験を同書に記している。


>  お目当ての学会員の家を探し当て、池田が足を止めた。
> 「お、ここはカネを出してくれそうだ」
>  薄汚れた門構えの家だった。とても他人に貸すほどの余裕があるとは思えない。
> 「いや、こういう家には箪笥預金がしまいこんであるんだ」
>  自信満々にそういった池田の読みはピタリと的中した。もう一軒の学会員の家では、
> 一緒にきていた池田の部下が、
> 「あそこはダメですよ。前に借りて、もうカネがない。行っても無駄です」
> 「いや、あの家には必ずまだある。大丈夫だ。行ってこい」
>  そう睨んだ池田が部下を走らせた。実際にカネはあった。私はキツネにつままれた
> ような気分で池田の特異な眼力にただ目を見張っただけだった。


 また、池田の取り立ては苛酷そのもので、「病人が寝ているフトンをはぐ」ことまです
るほどだったという。辣腕の金貸しだった池田の月収は、大卒初任給が一万円に届かなか
った当時、20万円を下らなかった。

 余談だが、こうした大蔵商事の出資者の係累の中には、頻繁に通ってくる池田大作と深
い中になった者もいた。後に「月刊ペン」事件で有名になった渡部通子氏がそうである。

 池田はその当時すでに妻帯していたにもかかわらず、好みの女性を口説き落としていた
わけだが、これも愛人を大蔵商事の専務にした戸田との、「師弟不二」の実践だったのだ
ろうか……。

 大蔵商事と並んで、戸田の事業の柱となったのが「東洋精光」である。この会社は大蔵
商事から借りた金が返せずに経営者が破産し、所有権が移ったもので、元は金属加工など
を手がける町工場だったが、戸田の傘下になってからは大蔵商事の担保流れ品や、電化製
品などを販売するようになった(『池田大作の素顔』による)。

 東洋精光の会社の社長は北条浩、営業部長は藤原行正(『人間革命』ではそれぞれ「十
条潔」「藤川一正」)が務めた。この会社の実態と、『聖教新聞』創刊に際しての戸田の
言動とを引用する。


>  戸田は自ら日用雑貨を販売して歩き、「売れれば功徳がある。買えば功徳がある」
> と会員に強制し、買わない者には罰論まで持ち出して恫喝したという。日用雑貨はい
> つのまにか高級電化製品に変わっていた。常識では考えられぬ価格で大量に仕入れら
> れ、利幅は四、五割。高い値段、しかもアフターケアの不備のため、本部への苦情が
> 殺到したという。だが、戸田は「組織販売で、十万人の会員を握れば大成功だ。宗教
> は儲かる商売だ」と語ってはばからなかったのである。
> 『聖教新聞』発行についても、外部からの資金調達に際して、「これから始める新聞
> は記者も配達人も信者だから、経費は紙と印刷代だけだし、購読料も信者の班組織を
> 通じて集金するので確実である。こんな確実な商売はない」と説得していたという。
 (室生忠・隈部大蔵共著『邪教集団・創価学会』より引用)


 戸田が自ら販売をして歩いたのは、旧華族出身の北条や社会経験の乏しい藤原に、いき
なり行商や飛び込み営業のようなことをさせても、上手くいかないことはわかっていたの
で、始めの頃は人生経験豊富な戸田自身が、手本を見せる必要があったからでもあろう。

 昭和20年代後半から昭和30年代初頭にかけての、戸田城聖のビジネスにおける最大の功
労者は池田大作だった。このことが池田が第三代会長に就任できた、大きな理由の一つだ
ったことは疑いない。

 そして、戸田亡き後、池田が実権を握り続けたことにより、ビジネスと宗教を一体化さ
せるあり方が、創価学会の体質として拭いがたく定着していったのである。

 現在の創価学会では、借りた資金を貸し付けて利ザヤを稼ぐという回りくどいことは、
もうやらなくなった。これ以上の国内での信者数の増加は望みがたいので、格好をつける
必要はもうないと考えたのか、かつて他宗教を批判する最大の口実だった〝金集め〟を、
「財務」や「広布基金」という名目で、自ら始めたからである(この点については以前詳
述したので、重複を避ける)。

 本稿の締めくくりとして、『人間革命』第二巻から昭和22年(1947年)10月19日の創価
学会第二回総会での、戸田城聖の講演の一節を引用する。


>  されば、仏の使いの集まりが学会人である、と悟らなくてはなりません。迷える人
> びとを、仏の御もと、すなわち日蓮正宗の御本尊の御もとに、案内するものの集まり
> であることを知らなくてはなりません。
>  このためには、けっして信仰や折伏を、自分の金儲けや、都合のために利用しては
> ならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは決してできない
> のであって、世にいう悪いことより、はるかに悪いのであります。
>  学会は、名誉のためや、金儲けのためや、寄付をもらうために、動くようなことが
> あってはならないのであります。


 有難さのあまり、涙が出るほどご立派な高説である。『人間革命』の著者であるらしい
池田センセイも、この一節を執筆される際には、恩師の偉大さを偲び、感涙を禁じ得なか
ったのではあるまいか。

 学会員の皆さんにも、戸田センセイ、池田センセイがどれほど高潔の士であったかを、
あらためて考えていただきたいものである。

2017年5月9日火曜日

戸田城聖のビジネス(戦後編‐②)

 ※ 承前 戦前・戦中編 戦後編‐①

 昭和24年(1949年)10月、戸田城聖が経営する出版社・日本正学館は倒産し、池田大作
を含めた同社の社員は、金融会社・東京建設信用組合(『人間革命』では「東光建設信用
組合」)に異動する。

 しかし、この東京建設信用組合の経営も順調とはほど遠いものだった。その理由として
は、まったくの異業種である金融業に、元々出版社の社員だった人々をあてたことや、当
時インフレを抑制するために厳しい金融引き締め政策がとられており、深刻な不況だった
ことなどが考えられる。この苦境は『人間革命』にも述べられている。


>  戸田城聖は、こうした経済不況のなかで、停止した出版部門の整理も、多くの債権
> 者を相手に進めなければならなかった。社員の給与も、遅配したり、分割払いにしな
> ければならないこともしばしばであった。しばらくすると、社員のなかで一人、二人
> と退職していくものもあらわれてきた。戸田は、そのようなものを決して追わなかっ
> た。
>  なによりも、資金が枯渇していた。借り主は、いくらでもいる。だが、資金の補給
> 路は、月々細くなっていった。そして、回収の遅延が、資金不足にさらに輪をかけた。
> また、人手も不足になってきた。ようやく彼の事業にも、憂色が濃くなったのである。
 (『人間革命』第四巻より引用)


 昭和24年暮れから25年にかけての戸田は、裏地がボロボロの背広を着とおしていたこと
から、「裏ボロ」というあだ名で呼ばれるほど困窮していた。多くの社員が脱落していく
中、まだ22歳の池田大作(『人間革命』では「山本伸一」)も重要な役割りを担わざるを
得なかった。


>  この頃、山本伸一は戸田の指示のままに、毎日、四方八方に飛んでいた。要件のこ
> とごとくは、厄介な外交戦といってよかった。(中略)
>  彼の仕事は、相手の諒解を求めたり、支援を依頼したり、厳重に督促をしたり、苦
> 情を受け止めたり、一件として気の許せる仕事ではなかった。現実の厳しさと、責任
> の重さに、毎日くたくたになって、疲労はかさなった。若い伸一は、あまりにも早く、
> 社会の大きな波をかぶってしまったともいえるのである。
 (『人間革命』第四巻より引用)


 だが、こうした経験は戸田の信頼を勝ち得、後に池田が牧口以来の古参幹部を押しのけ
て実権を握り、若くして第三代会長に就任する上で無駄にはならなかった。ノンフィクシ
ョン作家・溝口敦氏は、以下のように述べている。


>  池田は戸田のカバン持ちとして、信用組合の厄介な外交戦の第一線に、責任を負っ
> て立たされ、金や法、人や組織、インチキや嘘や脅しなど多くのものを学んだ。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 戸田や池田の奮闘にもかかわらず、東京建設信用組合の経営は行き詰まり、昭和25年8
月、ついに大蔵省から営業停止命令が出る。それだけでなく、取り立てに関してのトラブ
ルにより債権者から告訴された。

 この危機に、戸田は創価学会の理事長を辞して矢島周平に譲り、名を一時的に「城正」
と変えて身を隠したという。


>  八月二十四日、戸田は創価学会理事長の職を辞任し、矢島周平を後任にすえると、
> 会員の前から姿をかくした。この時大損害をうけた債権者のひとりが、のちにかれを
> 「インチキ」と激しく非難している。

>  昭和二十四年、当時戸田が西神田にある「東京建設信用組合」なるものを経営して
> いるとき、知人を通じて手形の割引きを依頼されました。まだ保全経済会などの事件
> も起きぬ前で、インフレの名残りで、高い利率にもそれほど不信も抱かず、手形の割
> 引きを、四、五回したものです。
>  また、その信用組合は定期預金なるものを作り、三ヵ月、六ヵ月満期の定期にも加
> 入させられました。そのときすでに多額の貸付金コゲツキのため、四苦八苦の最中だ
> とは、定期の満期の迫ったとき知ったのです。
>  ようやく捕まえた戸田と会ったとき、神田の事務所の裏の小料理屋で、度の強い眼
> 鏡をタタミにすりつけて平身低頭「生きている限り、必ずこの戸田が誓って全部返済
> します」といった姿を今も忘れません。しかし、その後、姿をくらまし、二年後に彼
> の負債(約千五百万円とか)は三割返済の決議により清算されました。
>                    (『週刊朝日』昭和三十一年九月二日号)
 (日隈威徳著『戸田城聖』より引用)


 因果なめぐりあわせとしか言いようがないが、東京建設信用組合の倒産から程なくして、
日本は朝鮮戦争による特需景気に恵まれた。世の中が好景気に沸く中、戸田は借金取りか
ら逃れるため、名まで変えてコソコソと逃げまわっていたのである。

 信用組合の出資者の中には学会員もおり、被害を受けた学会員の中には退転する者、数
十世帯の同志を集めて分派を企てる者などが現われたと、『人間革命』第四巻には記され
ている。

 その後、戸田は懲りずに新たな金融会社・大蔵商事(『人間革命』では「大東商工」)
を立ち上げる。そして、この会社の成功が戸田の苦境を救い、池田が学会内部での地位を
固める大きな要因になるのだが、その詳細は次回述べる。



補足1 矢島周平について

 矢島も戦時中、創価教育学会が治安維持法違反で弾圧を受けた際に逮捕され、退転する
ことなく昭和20年4月まで入獄していた、戦前からの幹部だった。

 戦後は日本正学館に勤務しながら、引き続き学会幹部を務め、上述のように戸田が理事
長から引いた際には後任となるほどだったが、戸田が会長に就任して以降は、次第に戸田
に対して批判的となり、創価学会から離れて日蓮正宗の僧侶となったという。


補足2 戸田の事業失敗についての『人間革命』の記述

 創価学会は「この信心をすればご利益がある、金が儲かる」と主張して信者を増やして
きた。その教祖である戸田が、自ら経営する会社を潰してしまったのでは格好がつかない。
世の中が特需景気に沸く中、債権者の目を避けて姿を隠していたというのであれば、なお
さらである。

 『人間革命』では、その理由を戸田が法華経講義を、日蓮が行った講義を弟子の日興が
記したものとされる『御義口伝』ではなく、天台大師の『摩訶止観』に基づいて行ったこ
とに対する〝罰〟だったとして正当化している。

 しかしながら、現在でも創価学会の重要教義である「一念三千」や「十界論」も、元を
ただせば天台大師にさかのぼるものなのだが、こうした教義によって折伏や仏法対話を行
っている学会員は〝罰〟を受けないのだろうか。

 そのような疑問を持つような判断力がある人は、最初から創価学会などには入らないの
かもしれない。学会員の皆さんも少し考えれば、『人間革命』の記述の多くは、手前勝手
な御都合主義に過ぎないと、気づきそうなものだが……。


参考文献
溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』
日隈威徳著『戸田城聖』

2017年5月7日日曜日

戸田城聖のビジネス(戦後編‐①)

 ※ 承前 戦前・戦中編

 治安維持法違反で逮捕され、未決拘留されていた戸田は、懲役三年執行猶予五年の判決
をうけ、昭和20年(1945年)7月3日豊多摩拘置所から保釈された(『人間革命』は、この
場面から始まる)。戸田の事業は崩壊し、多額の負債まで抱えていた。

 事業を再開した戸田は、新たなビジネスとして通信教育を思いたち、早速行動を開始す
る。敗戦直後には、新聞広告を出すなどその動きはすばやかった。当時の模様を、戸田の
伝記から引用する。


>  八月二十三日、アメリカ占領軍の第一陣が、神奈川県の厚木飛行場に進駐した日の
> 「朝日新聞」の一面の左下隅に、一つの広告が載った。
> 「日本正学館」――戸田の再建第一歩の名称だった。その広告以外、他に広告はまっ
> たくなかったのだから、たしかに戸田の立ち上がりはすばしこかったといえるだろう。
> 「中学一年用、二年用、三年用、数学・物象の学び方・考え方・解き方(通信教授)」
> と、大きな活字が並んでいた。そして、小さい活字の説明は――数学・物象の教科書
> の主要問題を月二回解説し、月一回の試験問題の添削をする。解説を「綴り込めば得
> 難き参考書となる」六ヵ月完了。各学年とも六ヵ月分二十五円。前納のこと。資材の
> 関係で会員数を限定する。「内容見本規則書なし」と書かれていた。
 (日隈威徳著『戸田城聖』より引用)

 ※ 『人間革命』第一巻にも同様の記述がある。


 戸田は、戦前成功した学習参考書のノウハウをもとに、新たなビジネスとして通信教育
を立案したわけだが、この着想は、戦争末期の学徒動員で、工場での労働や農村での食糧
生産にあたらされており、教育がおろそかになっていた、中学生・女学生の学習意欲に訴
えるものであり、申し込みが殺到した。この事業は、ごく短期的には成功したといえる。

 また、占領軍の進駐にともない英語ブームが起こったが、戸田はこれにもすばやく対応
し、9月には英語の通信教育も開始した。

 出だしは好調だったものの、このビジネスは当時の急激なインフレにより頓挫する。用
紙代や送料が値上がりし続けるのに対し、前金制ではそれを価格転嫁できないのだから、
当然である。

 インフレに対応できるビジネスモデルへの転換を図った戸田は、単行本の出版を再開し
た。単行本なら、発売時の物価に応じて販売価格を変更できるので、前金払いの通信教育
よりも資材の高騰に対応しやすいし、娯楽に飢えていた当時の国民は本を求めていた。

 戸田は戦前、版権を取得していた大衆小説を出版した他、当時、流行語になっていた民
主主義についての本の刊行も計画したという。

 終戦直後の日本では、インフレに加えて物資の不足も、事業を行ううえで深刻な問題で
あった。特に出版業においては、紙をいかに確保するかが重要な経営課題だった。『人間
革命』から、関連する記述を引用する。


>  戸田も、この難関の克服に、懸命にならざるをえなかった。彼の、豪放にして細心
> な事業手腕を、思いきり発揮させたのもこの時である。
>  彼は、自社の紙の入手に奔走するばかりでなく、同業の弱小出版社に、紙をまわし
> てやることもしばしばであった。弱小出版社は蘇生し、彼らは心から感謝した。彼の
> 社には、いつか衛星のように、大小の出版社が出入りするようになっていった。彼の
> 信義と包容力は、出版界の一角に、小さな星群をつくっていった。これが、やがて後
> に、彼を中心とする金融機関の設置にまで、発展するのである。
>  ある時、戸田は、必要量の紙を、どうしても手にいれねばならなくなった。だが万
> 策つき、計画は座礁した。その深夜――彼は、ガバッと寝床の上に起きあがって、
> 「諸天善神、広布の礎のための事業だ。戸田城聖のために、紙を運んでこないか」と、
> 諸天に叱咤の叫びを放った。翌日、交渉の途切れていた社から、思いがけず必要量の
> 紙が、入荷する手はずになったのだった。
 (『人間革命』第一巻より引用)


 戸田の「豪放にして細心な事業手腕」とは、具体的にどのようなものだったか、『人間
革命』には述べられていない。しかし、物資不足のなかにあって、同業者に紙をまわすこ
とができるほど大量の紙を入手できた、戸田の「信義と包容力」あふれる経営手法につい
て述べられている文献があるので、以下に引用する。


>  そこで新聞、雑誌などにたいする当時の用紙の供給は、占領行政のもとで、政府の
> 用紙割当委員会が民間の窓口となり、G・H・Q(連合軍司令部)が最終的に用紙割
> 当てを決定することになっていた。具体的にいえば、G・H・Q内のC・I・C(米
> 軍特務機関が、この種の情報担当をしていたのである。
>  こうした終戦後の環境下、政友会の院外団員もしていたことのある戸田は、当時の
> 大政治家・古島一雄に、彼の得意とする世渡り術をもって近づき、みごとにG・H・
> Qあての紹介状をもらうことに成功したのである。
 (中略)
>  この戸田の戦略・戦術は、みごとに的中した。なぜなら、彼は、この古島一雄の紹
> 介状を持ってC・I・Cを訪れ、さしあたり、保守系の『日本婦人新聞』を通して大
> 々的な反共運動のキャンペーンをすると工作、毎月、新聞二十万部相当量の用紙割当
> てを獲得することに成功したからである。婦人新聞の実際の用紙割当必要量は毎月、
> 二万部数相当量のものであったので、戸田は差し引き十八万部数相当量にものぼる用
> 紙を、得意のペテンの術によって、毎月、自分のものにすることができたわけだ。
>  彼は、この工作して詐取した大量の用紙を、用紙不足にあえぐ出版市場にヤミで横
> 流し、当時の金額で毎月、三~四十万を下らない巨額の不当利益をあげるとともに、
> この大金を、彼の得意とする「酒」と「女」と「事業」に乱費したのである。参考ま
> でに、当時の三~四十万の金の値打ちは、現在の物価指数を千倍として、いまの金額
> でいえば、三億円~四億円にのぼるものである。
 (室生忠・隈部大蔵共著『邪教集団・創価学会』より引用)

 ※ 上記引用については、補足で解説を加える。


 またしてもインチキな手口で巨利を得た戸田だが、この不正は半年ほどで露見し、戸田
はGHQから取り調べを受けた。その供述調書の内容には〝狂信的な仏教団体を指導する
が、本人はすべて計算ずくで動くタイプだから、ことさらその信仰に狂信的であることは
ないと述べる〟という趣旨があるという(『邪教集団・創価学会』による)。

 この用紙詐取事件で、戸田は刑事責任を問われることはなかったが、不正な利益につい
ては、5~6年かけて返済することになった。しかし、当時のインフレを考えると、その
負担はそれほど大きくはなかったのかもしれない。

 昭和23年(1948年)、戸田は雑誌の刊行を開始する。まず、少年雑誌『冒険少年』を発
行し、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊した。この『ルビー』の内容は、大絵巻絢爛「新
婚伊豆廻り絵巻 花恥し 新婚の夢」、大特集「未亡人と性」、大特集「小説・産児制限」
といったものだった(野田峯雄著『池田大作 金脈の研究』による)。どうもあまり上品
な雑誌ではなかったようである。この頃、池田大作も日本正学館の社員となっている。

 こうした雑誌は、当初は好調な売れ行きだったものの、その後、戦争の影響で休刊して
いた大出版社の雑誌(『文芸春秋』『婦人公論』など)が復刊しはじめると、人気が低迷
し、返本率が急上昇して、ついに休刊を余儀なくされた。

 日本正学館は倒産し、戸田は新事業である金融業に進出するが、それについては次回述
べる。



補足1 古島一雄について

 上記引用にある古島一雄は、明治から昭和にいたるまで活躍した政治家であり、戦後は
吉田茂の相談役をつとめるなど、小さからぬ影響力をもつ人物であった。

 創価学会とは、戦前の創価教育学会の頃から関わりがあり、昭和12年(1937年)、麻布
の料亭で創価教育学会の正式な発会式が開かれた際に、顧問に就任している。

 『人間革命』第一巻にも、釈放された直後の戸田が古島に面会し、戦争終結の時期を聞
く場面が描かれている。


補足2 日本婦人新聞について

 戸田城聖は、日本婦人新聞とは浅からぬ縁があった。
 『人間革命』第一巻「一人立つ」の章に、西神田の一角にあった三階建ての売り家を、
昭和20年9月に戸田が購入し、日本正学館の事務所にしたと述べられているが、これは事
実と異なる。

 実は西神田のこの建物には、日本婦人新聞の社屋で、戸田はそこに間借りしたのである。
これは、学会の有力幹部・和泉覚が日本婦人新聞の総務局長だった縁による(和泉は『人
間革命』には「泉田弘」として登場、後に創価学会の第四代理事長を務める)。

 この西神田の事務所には、「創価学会」の看板も掲げられた。創価教育学会からの名称
変更も、事業拠点変更と同時期になされたのである。

 戸田は〝一人立った〟のではなく、頼りになる仲間に支えられていたわけだが、『人間
革命』では、池田大作(作中では「山本伸一」)を偉大に見せるためか、それ以外の人物
の貢献を過小に描いているようである。

2017年5月5日金曜日

戸田城聖のビジネス(戦前・戦中編)

 戸田城聖は、炭鉱会社の事務員、小学校教諭、生命保険の外交員など、様々な職を転々
とした後、大正12年(1923年)「時習学館」という学習塾を開いた。

 この当時、戸田は「城外」と名乗っていた。また、牧口常三郎が校長を務める小学校に
勤務したことが縁で、牧口の人格・教育理論に傾倒するようになり、生涯の師と仰ぐよう
になっていた。

 この時習学館は、当時の激しい中学受験競争を背景にかなり繁盛した。戸田は、教育者
として、かなり有能だったようである。

 また、戸田はこの時習学館の教材を、参考書にまとめて売り出し、出版業にも進出した。
この参考書も好評で、特に『推理式指導算術』は版を重ねて、百万部を売り上げたという。
戸田の参考書について、哲学者鶴見俊輔氏の見解を引用する。


> (前略)というのは、山下より二年遅れて、私が彼と同じ中学校に入学することがで
> きたのは、戸田城外著の時習学館式の国語ならびに数学の参考書に助けられたからだ
> ったのだ。それらの参考書は、受験勉強の書であるにもかかわらず、人生経験から勉
> 強に入るように仕組まれていた。私は、小学校でビリから五番だった自分が、この参
> 考書を与えられて急に勉強に対する意欲の動き出したのをおぼえている。
 (『鶴見俊輔著作集』第三巻より引用)

 ※ 引用中の「山下」とは、ドイツ文学者山下肇氏。山下氏は時習学館の生徒だった。


 戸田については、そのアル中ぶりがあまりにも有名であるため、それだけ聞くと過小評
価してしまいがちだが、創価学会が現在のような巨大教団に発展できたのは、戸田が教育
者・実業家として、それなりの能力・経験を持っていたこと、他人を感化するカリスマ性
を備えていたことも、大きな理由であることを忘れるべきではない。

 昭和3年(1928年)、牧口・戸田の子弟は日蓮正宗に入信した。戸田は当初、あまり乗
り気ではなかったらしいが、総本山大石寺に参詣し、大御本尊の御開扉を受けた後、「ほ
んものだ」と感嘆して熱心に信仰するようになったという。

 昭和5年(1930年)、学習塾と参考書の成功を受けて、戸田は恩師である牧口とともに、
牧口の理論を世に広めるため「創価教育学会」設立、同年11月18日付けで『創価教育学体
系』第一巻を出版した。現在の創価学会では、この日を創立記念日としている。

 当初、会長牧口、理事長戸田の二人だけだった創価教育学会だが、東京の小学校教員を
中心に徐々に広がり、その後、戸田の事業と関係する小規模な事業者にも広まった。創価
学会の創成期以来の幹部に、元教員が多いのはそのためである(辻武寿、原島宏治、柏原
ヤスなどが該当)。

 昭和7年(1932年)、前年に勃発した満州事変に対応する国策の一つとして、兵隊の防
寒着の必要があることから、各家庭の毛製品を供出させ、国が買い上げるという事業が行
われたが、牧口・戸田の師弟は、この事業に関与して利益を上げたという。
 しかしその際には、かなりあくどいことに手を染めたらしい。


>  ところでこのころ、戸田、牧口らは朝から晩まで高級料亭で、在郷軍人会長や警察
> 署長などを誘っては美味・美酒・美色(!?)にふけっていたのです。そういうことが、
> なぜ、できたかといえば、夕方になると、その日の儲けを山分けするのです。供出品
> のなかの良品は全部横流しをして、悪いものだけを軍部に出したからです。それで、
> 毎日朝から晩まで飲み食いしたのを支払っても、一人分千円以上の利益があったそう
> です。当時は千円で一軒の家が買えるような時代でした。
 (室生忠・隈部大蔵共著『邪教集団・創価学会』より引用)


 『人間革命』では、戸田城聖を平和の使徒のごとく美化して描いているが、その戸田が
実は軍需物資の横流しで暴利を上げていたのだから、呆れるしかない。

 戸田はその後、日本小学館を設立、当初は出版業を中心としたが、徐々に多角化し、多
くの会社を支配するようになった。当時の事業の模様を、戸田の伝記から引用する。


>  戸田がばく大な利益をあげたのは、大衆文学の出版である。とくに太平洋戦争が開
> 始されてからは、北海道厚田村の同郷出身で特別に親しかった小母沢寛に、大道書房
> で書き下ろし小説を書いてもらい、『勝安房守』など五十点余を刊行した。
>  資金が豊富になった戸田は、神田に日本商事という手形割引き会社を設立し、昭和
> 十八年一月には、千葉県の醤油問屋平野商店を九十五万円で譲りうけ、五万円の証拠
> 金をおさめて兜町の証券界に進出した。事業がもっともさかんだった時には、十七の
> 会社を支配し、資産金は六百万円、月収は一万円を超えたという。
 (日隈威徳著『戸田城聖』より引用)


 一方で、戸田のこうした事業の成功の裏には、またしてもインチキな手口が寄与してい
た。上記引用中に醤油問屋の買収について述べられているが、醤油等の販売で、どのよう
なやり口で利益を上げたかを、戦後になってから戸田はこう語ったという。


>  昭和二十六、七年ごろ、学会青年部の会合などでたまに興が乗ると、戸田先生はそ
> の事業成功のコツを披瀝した。
> 「酒の抜き替えは、薦被りの樽の底に、キリで穴をあけて、中身の酒を出して、そこ
> から水を入れ、竹の栓を打って、上からカンナでけずっておけば、絶対わからない。
> また醤油の場合は、塩湯をさまして入れ替えれば、儲かるんだよ」
>  いまの時代にこんな真似をしたら大変だ。のんびりした戦前型の中小企業主的な経
> 営感覚だろう。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 このようなインチキ商法により利益を上げることで、戦時中にもかかわらず事業を拡大
できた戸田だが、治安維持法違反により逮捕されたことで、その事業も壊滅した。
 戦後、事業復興へ向けて彼は奮闘するわけだが、それについては次回述べる。



補足

 戸田城聖は明治33年(1900年)、石川県に生まれた。生まれた時に付けられた名は甚一。
その後、一家は北海道に移住し、戸田はそこで育った。

 戸田は名を何回も変えている。大正6年(1917年)晴通、大正7年に雅皓、大正10年に
博方、大正11年に城外と改め、戦後になって城聖を名乗った。

参考文献:日隈威徳著『戸田城聖』

2017年5月3日水曜日

変わらない創価学会

 創価学会の前身である創価教育学会が、牧口常三郎・戸田城聖の両名により設立された
のは、昭和5年(1930年)のことである。その後、戦時下の弾圧を経て、戦後、創価学会
と改称し、宗教法人としては昭和27年(1952年)に認可された。

 それから60年以上が経過した。その間に、彼らは様々な事件を引き起こし、そのたびに
その反社会的な体質を批判されてきた。

 それにもかかわらず、彼らの体質は一向に改まっていない。世間に対して、一応は取り
繕ってみせるものの、より巧妙で露見しにくい手口で同じようなことを繰り返す。

 この変わらないというか、性懲りもない、しかも根深い創価学会の反社会的体質につい
て、本稿では取り上げる。

 まず、今から48年前、昭和44年(1969年)に出版された『創価学会を斬る』から、「他
人を『ノロウ』ものの罪」と題された一節の一部を引く。


>  創価学会教学部編になる『日蓮正宗創価学会批判を破す』という本の中に次のよう
> に書かれている。
>  「ちょっと前のことになりますが、学会の悪口をいっていた宗教学者の佐木秋夫氏
> がお山へ行きたいというので、戸田先生から案内するようにいわれて同行することに
> なったのですが、出発の日に、東京駅で私が待っていたところ、佐木氏の方では、そ
> の前日でしたか『子どもが死んだから行けなくなった』というのですね。これは、ハ
> ッキリとした罰ですよ。そして帰ってきてからきいたのですが、佐木氏はイナカへ帰
> って、邪宗日蓮宗で葬式を出したというのです。まるっきり、なっちゃいないですね」
>  学会教学部、つまり学会のいちばん重要な頭脳にあたるところが、こんなバカバカ
> しい内容の本を堂々と出版しているのである。いったい創価学会は人間の死というも
> のをなんと心得ているのであろうか。いわゆる邪宗を批判するのは、彼等の自由であ
> る。意見発表の自由によって競争していく、これはわれわれの関知するところではな
> い。しかし創価学会を批判する人であったとはいえ、その人の子供の死を罰としてと
> らえ、しかもこれを当然視する態度はいったい何たることであろうか。これをもって
> 学会批判の当然の〝報い〟と考えて堂々と公表する真理は、まさに恐るべき精神病理
> 性と、人間性の冒瀆と、とらざるをえない。まさに〝他をノロウ罪〟これが学会の本
> 質なのである。
 (藤原弘達著『創価学会を斬る』より引用)

 ※ この本は、いわゆる言論出版妨害事件で有名になった。出版社には「池田先生を批
  判すると地獄に堕ちる」といった電話が次々にかかり、抗議の手紙も段ボール数箱分
  届いたという(言論出版妨害事件の詳細は、別の機会に論じる予定である)。


 かつての創価学会が公然と他人を呪い、しかも、その事を恬として恥じない集団であっ
たことは、上記引用から明らかである。

 しかし、『創価学会を斬る』が出版された当時、創価学会は宗教法人となってから、ま
だ17年しか経っていない。好意的に見れば、組織としての若さ、未熟さが、社会的な逸脱
の背景にあったと見做せなくもない。

 『創価学会を斬る』はミリオンセラーとなり、創価学会は出版妨害や公明党との政教一
致について批判を受け、当時会長だった池田大作は、謝罪講演を余儀なくされた。

 それから幾星霜を経た。通常の組織であれば、角が取れ、老成されて、社会との融和に
より配慮するようになるのが普通である。池田大作自身、謝罪講演で「社会に迷惑をかけ
ることは大謗法」と言明した。

 だが、実際にはそうはならなかった。池田大作は、自分のために忠節を尽くした功労者
――福島源次郎氏、山崎正友氏、原島嵩氏、竹入義勝氏、龍年光氏など――や、就任当初
は創価学会に対して融和的だった日蓮正宗法主・阿部日顕氏とも敵対するにいたり、泥沼
の抗争を展開した(私が見るところ、その責任はほぼすべて池田大作にある)。

 そして、敵対者たちを「仏敵」とし、聖教新聞紙上で口汚い罵詈雑言を浴びせた。
 それだけでなく、創価学会の施設では阿部日顕氏をはじめとする「仏敵」とされた人々
を呪詛するための唱題会まで行われた。

 創価学会の体質で変わった点といえば、社会から批判されないように、より目立たない
やり方でこうした呪詛を行うようになったことくらいではないだろうか。

 それにしても、創価学会員にとっては憎悪が込められた悪口雑言が載った聖教新聞を毎
朝読み、呪いの儀式のようなことまで行うのが日常だったのだから、正気の沙汰とは思え
ない。このような家庭環境で、まともな人間が育つのだろうか。

 万人の幸福を願う信仰ならば、人格形成によい影響があるかもしれないが、他人を呪う
のが当たり前の創価学会では、反社会的な人格が涵養されるのではないかと危ぶまれる。

 しかも、彼らは数百万世帯を擁している。このような憎悪を植え付ける信仰を、絶対に
正しいものだと思い込まされて育った学会員子弟が、多数存在しているのである。そら恐
ろしさを感じるのは私だけではないと思う。

 なお、この学会の総力を挙げた撲滅唱題にもかかわらず、阿部日顕氏は90歳を超えてな
お矍鑠としていたという。インチキ宗教の祈りになど、何の力もない証拠である。

 実は、創価学会のこうした体質は、創価教育学会を名乗っていた、戦前・戦中から変わ
っていない。昭和18年(1943年)当時の事件を引く。


>  神札問題から間もなく、創価教育学会は弾圧を受ける。発端は、東京・東中野のク
> リーニング業・陣野某、有村某(創価教育学会理事)の二人が流言蜚語で検挙された
> ことである。近所に子供を病死させた家があり、そこへ折伏に出かけた両人が、「子
> 供が死んだのはバチがでたのだ。今の日本は、正しい宗教に入り大善生活をしなけれ
> ば、まだまだバチがでる」と説いた。悲しみのさなか、バチだと極言されたから、親
> が怒って警察に訴えでたため、陣野、有村の逮捕となった。
(藤原弘達著『創価学会をブッた斬る』より引用)


 創価教育学会は治安維持法により弾圧を受けた。この法律が思想の自由・信教の自由を
制限する悪法と断罪されて久しい。私もそれに意義を唱えるつもりはないが、創価学会を
はじめとする悪質なカルトまでもが、「信教の自由」の美名の下、やりたい放題を許され
ている現状もいかがなものか、と思わずにはいられない。

 さて、創価学会員による強引な折伏の被害は、現在でもよく聞かれる話である。特によ
く聞かれるのが、大学入学を機に一人暮らしを始めた人が、クラスメートやサークル活動
などで友人になった人から、宗教について議論を挑まれ、言い負かされて半ば無理やり入
信させられるケースである。

 私自身、そうした経験はあるし(私は言い負かされたりはしなかったが)、知人がそう
した被害にあっているのを助けたこともある。その時は、当ブログでこれまで述べたよう
なことを論じて、相手の学会員を論破したが、帰る間際にその男はこちらを振り向いて、
「ナンミョーホ―レンゲーキョー」と憎々しげに唱えて去った。今思えば、あれは呪詛の
唱題だったのだろう。

 本稿で論じたように、創価学会の反社会的な体質は、設立当初からのものであり、現在
に至っても、何も変わっていない。しかし、さすがに度重なるバッシングや、インターネ
ットでの情報拡散を懸念してか、近年はより隠微な手段をとるようになっているようだが。

 逆に言えば、昔の方が現在よりも手口が杜撰で、学会も世間からどう思われるかにあま
り配慮していなかった分、古い出来事の方が情報を得やすい面もある。

 そこで、次回以降、当面は『人間革命』等を題材に、創価学会の反社会性、非科学性、
前時代性などについて論じたい。